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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 春・壱7

 二人が座敷に着くと、漆塗りの卓は賑やかな様相を見せていた。菊野は和やかな笑みを見せ、ほんのりと頬を赤らめた正一は、維知香に向かって声を上げる。

「維知香、お転婆が過ぎるんじゃないか? せっかく素敵な着物を着たというのに、それじゃあ誰が見たって、お転婆で聞き分けのない子ども、そのものじゃないか」
「ごめんなさい」
「私じゃなく、深遠さんに謝りなさい」
「私なら構いません」

 深遠が言葉を挟むも、正一は右手を立ててそれを制し、言葉を繋げる。

「いいかい? お母さん達にも謝らないといけないよ。食事の支度を手伝う約束だったろう? 維知香がいなくなってしまったものだから、手が足りなくなってしまって、お父さんが台所に立つはめになっているぞ」

 正一の響きは大きくはないが、音にも眼差しにも、確かな厳しさが宿っている。維知香は唇を噛み、目元を潤ませて俯く。ぽたり。一滴が廊下に落ちた。

 深遠は、廊下に膝を付け、歪な楕円を拭き取った後、小さく、しかしはっきりと、維知香に言葉をかけた。

「この家の井戸水は、懐かしい味がするんだ……」
「え?」
「一杯、ご馳走してくれるか?」
「ええ、もちろんよ。待っていて、すぐに持ってくるから!」

 一瞬で表情を華やかにし、維知香は廊下を駆け出した。しかしすぐに足を止め、静々と歩き出す。その様子に正一はため息を吐き、菊野は愉快愉快、と笑いながら、維知香の後ろについて廊下を進む。正反対な祖父母の様子など気にもとめず、維知香は廊下の途中で振り返り笑みを見せた後、更に奥へと足を運んだ。

「本当に、重ね重ね申し訳ありません。あの気性の激しさは一体誰に似たのか……宿るものの影響なのでしょうか……ああ、立たせたままで申し訳ない。連れてきて下さって、ありがとうございます。さあどうぞ、腰を下ろして下さい。今度こそ、ゆっくりと」

 正一は、皺の寄った手で、さあ、と言うように座布団を示す。深遠は一礼して座し、口を開いた。

「維知香様に宿る災厄は、非常に落ち着いております。宿り主が気を落としても、持ち上げても、災厄は微塵の戸惑いも見せません。基本的な共生の形ができ上がっているという、確かな証拠です」
「私達も、普段は何も意識していないんです。あの子が災厄を宿している……宿災という存在だということが、いまだに信じられないというのが本音です」
「それでよろしいかと……宿災であるからといって、特別な生活を送る必要などないのですから」
「しかし、あの子自身は、そう思っていないんです……貴方のように、自らに課せられた任を背負って生きたいのだと……宿災ならば、それが当然、そうあるべきだと思っているようなんです」

 深遠と正一。宙でぶつかった視線。互いに、宴の卓の様相と相反するまなざし。しばしの沈黙の後、先に目元を緩ませたのは、正一。

「私は、あとどれくらいあの子のお転婆を見ていられるのか、わかりません……本当に、本当に心配なんですよ。順当にいけば、菊野も吾一も桜子も、あの子より先に、この世を去りますから……ですから、貴方にお任せする他ないと思っています。ただ、その……」
「何でしょう? 遠慮なくお話し下さい。私に務まることであれば、何なりと」
「ああ、いや……まあとりあえず、今日のところは賑やかにやりましょう」

 正一は胸に抱えた何かを誤魔化すように笑い、猪口を持つよう深遠に進める。同時に女達の気配が座敷に流れ込んだ。あとに続いた吾一は、深遠の前に徳利と盃を並べ、その吾一を押し退けて、維知香が深遠の隣に座した。

「はい、お水」
「ありがとう。いただきます」
「深遠……」
「どうした?」
「あのね、大事なこと、言い忘れてた」

 維知香は小さな顔を、深遠の耳元に寄せた。
「お帰りなさい」
「……ただいま」

 微かに綻んだ深遠の目元。その動きを、維知香だけが、つぶさに捉えた。


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