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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 秋・弐7

 深遠は素直に疑問を顔に表す。そういう顔をするだろうと予想していたのか、菊野は目尻に皺を集め、一層穏やかに笑って見せる。

「それは維知香が生まれた年に仕込まれたお酒です。主人ったら、醸造元に予約までしていたんですよ……そのお酒は、熟成させることで完成するのだとか……樽の中で静かに旨味と深みを蓄えるのを待つには、根気が必要。だけど時が経って、熟成されたその味を口に運べば、待ったかいがあったと納得できるんだとか。時の積み重ねを、旨みと深みを、ただ喜び、楽しめば良い……なんて言っていました。高いお酒を飲む理由が欲しかっただけかもしれないですけど、私は、主人の言い分が気に入っているんですよ」

 言い終え、菊野は目元に手を寄せた。笑みに滲む涙。深遠はそこに、喪失感ではなく、幸福感を見た。正一と重ねた日々は、菊野にとって確実な喜びとなっているのだと。

 深遠は感銘を受け、己の深部から湧き上がる熱を感じた。受け取った酒瓶を、じっと見据える。

(あの日、俺に今の話をしていても、真意は掴めなかっただろうな……正一様は、時を待ってくれたのだろう)
 
 正一と最後に交わした酒も、洋酒であった。あれは、この酒の代わりであったのかもしれない。

 在りし日の正一の姿、声。あの夜の手の温もり。深遠の中に蘇った全てが、目頭に感情を寄せる。溢れ出しそうになったものを瞬きで散らし、深遠は菊野に向かい座を改めた。その瞬間、散らしきれなかった一滴が、深遠の頬をつたった。

「正一様の思い、菊野様の思い、受け取らせていただきます……本当に、ありがとうございます」
「どういたしまして……どうか末永く、あの子とともに……よろしくお願いいたします」

 菊野の右手が深遠の前に伸びる。節の目立ち始めたその手を取り、深遠は奥歯を噛み締めた。抑え込む感情は、酷なほど目頭を刺激する。堪えるも、握り交わす手に菊野の左手が添えられた瞬間、再び落涙。

 何も言わず、ただそこにあり続ける菊野。深遠は涙を誤魔化せず、小さな嗚咽を漏らす。

「あら嬉しいわ。やっと私にも心を許してくれたようね……私はまだまだ生きますから、これからも、よろしくお願いしますよ」
「承知いたしました……こちらこそ、よろしく、お願いいたします」


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