「下戸が無理して酒を飲み続ける」ような努力はいらない
(以前の記事を全面的に修正し再掲しました)
私はアルコールに弱い体質で、いわゆる「下戸」と言われる類です。
全く飲めないわけでなく若い頃は付き合いで飲んでいたこともあったのですが、ビールのグラス1杯で顔が真っ赤になって周りから「もう飲まないほうがいいよ」と止められてしまうし、だるくなったり具合が悪くなって帰りの電車が苦痛(←夜も混雑してて座れない路線だったので)だし、何よりも「酒のおいしさが全くわからない」「酔って気持ちがいいという感覚が全く分からない」ので今は会社やプライベートの飲み会でも最初から烏龍茶かノンアルコールビールにしています。
前に「お酒飲めない人ってどうやってストレス解消するの?」と聞かれたことがあるのですが、お酒飲みながら誰かと語り合うならともかく家や居酒屋のカウンターで一人お酒を飲んでストレス解消になるという感覚がわからないですし、酒が飲めなくても音楽聞いて身体動かすとかさっさと寝るとか長風呂するとかストレス解消の方法なんかたくさんあるだろうと思うのですが、そんな真面目なことを言っても仕方がないので「まあ私の場合はスイーツですかね」と「女性らしい」回答で済ませたことがあります。
日本人は他の国と比べても下戸の割合が比較的高いと言われていますが、実際は私の周りは酒飲みばかりですし下戸はマイノリティーです。
発達障害もLGBTもですが、とかくマイノリティーは「何故?」「本当に?」と聞かれることが多く、何かと説明を求められるのが時折面倒くさいなと思うことがあります。
下戸の場合、「○○出身は下戸が多いんだよね」みたく話のネタとして受け取ってもらえればまだいいんですが「何だ残念」だの「可哀想」だの「人生楽しい?」と言われると「余計なお世話だ」と言いたくなりますし、「普段飲んでないから弱いんだと思うな。少しずつ飲んで『練習』しとくといいよ」みたいなアドバイスについては「アルハラだ」と抗議したくなります。
「お酒が飲めないこと」自体は別に辛くもなんともないのですが、そのことで人からあれこれ言われてしまうのが煩わしいと感じることがあります。
一方で、これまで下戸である自分の辛さばかり意識が向いていて周りの人の「相手とお酒が飲めないことの辛さ」をあまり考えてなかった気もします。
酒飲みは本当は「あなたにお酒を飲んでもらいたい」と考えている
お酒はコミュニケーションツールの一つであります。
「俺の酒が飲めないのか?」というセリフがあるように、普通にお酒を飲める人からすると、お酒が飲めない人というのはどこか警戒心が強く相手に心を開かない印象を与えてしまいます。
最近は女性でも酒豪アピールする人が増えています。昔はお酒を飲まない女性は「慎ましい」と好意的に見られることも多かったのですが、女性の社会進出に伴い、お酒が飲める女性のほうが「人付き合いがよくフレンドリー」とプラスの印象を与えるようになったからかもしれません。
正直言って下戸は苦手、という酒飲みは少なくないと思います。「自分が酔っているのに相手がシラフなのは嫌だ。冷静に観察されている気がして居心地悪い」というのが彼らの本音だと思います。
飲める人同士なら飲んで酔って気持ちが緩んだ状態で本音を対等に語り合えるのに相手が下戸だと自分ばかりが弱みを握られてしまうような気がして心から酔えず物足りなく感じるのかもしれません。
いくら下戸が一生懸命場を盛り上げようとワーキャーはしゃいで大声で喋りまくっても、「シラフの壁」というのは下戸が想像する以上に飲める人にとっては厚いもののようです。
前に、ある酒豪のフォロワーさんから「オフ会したいけどLuさんはお酒飲めないからなあ」と言われて「じゃあお酒飲める別のフォロワーさんを呼んであげる」と言ったことがあるのですがあまり嬉しそうではなかったのは、彼女が「お酒を飲める誰かと飲みたい」のではなく「Luと飲みたい」からだったのだと思います。私と一緒に酒を飲んで、酒の席としてお互い心おきなくぶっちゃけ話をし合いたい。それがかなわないから辛いということだと思います。このような「相手が飲めないという辛さ」「相手と酔って楽しい気持ちを分かち合えない辛さ」にも時々は目を向けたほうがいいだろうなとは思います。
発達当事者が定型社会に合わせる努力は下戸がお酒を飲む努力に近い
とはいえ、どうにもならないことをいくら嘆いても仕方がありません。最初にこの記事を掲載した当時は上のような、「自分がどうしてもできないことで相手を辛くさせてしまう」ことにどう向き合えばいいのか、ということを必要以上に重く考えすぎていたような気がしています。
結局、持って生まれた体質を全否定するような努力はすべきではありません。アルコール耐性の低い人が(酒飲みが多数派を占める)飲み会の雰囲気を壊さないようにと無理してお酒を飲み続けたとしても、元々お酒の飲める人に比べてどうしても身体への負担も大きくなってしまいます。このNHKの記事によると酒に強い人と同じ量の酒を飲んだ場合、下戸や酒に弱い人のがんになるリスクは、食道がんの場合7.1倍、頭頸部がんが3.6倍になるのだそうです。到底自身の健康を犠牲にしてまで頑張る価値があるものとは思えません。
幸い、下戸の飲酒によるがんリスクのことも広く知られるようになったおかげで、昔ほど食事会でお酒を強要されることは少なくなりました。最近は若い世代で「飲めるけど飲まない」という人も増えてきて、懇親会や歓送迎会でも「お酒を飲みたい人は飲めばいい、飲みたくない人は飲まなくていい」という空気が広まっていることはとても良いことだと思います。
一方、最近の飲み会の席における下戸の受け入れられ方と比べると、発達障害者が定型中心のコミュニティに受け入れられるにはまだまだ従来からの「本来の自分を隠し定型発達者のように振舞う」「定型発達者の感覚や考え方に基づく『常識』に従う」「定型発達者の会話パターンをひたすら覚える」ことを余儀なくされることが現状です。しかしこれは言ってみれば「下戸が無理してお酒を飲み続けるような努力」なのです。体力がある20代の間の数ヶ月ぐらいであればそのような努力にも耐えられると思いますがこれが年単位で続くと次第に心身共々摩耗してしまいます。それが30歳になるかならないかの頃の私でした。当時職場の同僚や同期たちとのコミュニケーションがうまく行かずに孤立し、カウンセリングの場で「『普通の人』になりたいんです」と泣きながら訴えた私にかけられた、「そのような不毛な頑張りを続けてるといずれ伸びきったゴムのようになって元通りにならなくなるよ」という先生の厳しい言葉が今でも忘れられません。
お酒の飲めない人が「最初の乾杯の一口だけビールで後はウーロン茶」や「ノンアルコールビールやノンアルコールカクテルで参加」という工夫で飲み会を楽しむように、発達障害の特性を全否定せずに周りと調和する方法を考えるのが「努力の方向性」としては適切なように思います。
それが具体的にどのようなものであるかは私も今のところ明確な答えを持っていませんが、「それは私にはできません」でおしまいにするのではなく、「これならできます」と代案を自ら提案し続けることが大事なのではないかと思います。
下戸の場合は「お酒飲めなくても食べられればいいし人と話ができればいい、飲める人は私にお構いなく飲めばいい、それが不満なら飲める人とだけ飲みに行けばいい」という割切りができます。発達当事者の場合も周りとの関わりにおいて「また嫌われちゃったかも…」といちいち気に病まず「私のことが苦手という人は距離を置いてくれればいい、わかる人にだけわかってもらえればいい、自分のできる範囲で誠意を尽くせばよい」という割切りが生きやすさにつながるのではないでしょうか。
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