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ASDと「感情」について。

よく「定型発達者は事実と感情を交えて話すがASD当事者は事実のみを話す」と言われます。そのことがASD当事者とのコミュニケーションにおいて定型発達者が戸惑ったりストレスに感じる点であるように見受けられます。
これは、
ASDは自分の感情を心の中にしまって一人で解決し、定型者は自分の感情を他者と共有することで解決する
という傾向から来ているものと思います。
しかし私はその「一人で解決する」のはASDの脳の特性そのものというよりは、特性から来る「多数派と違う感覚」から派生する感情を他者に受け入れられない/共感されないために「感情を他者と共有する」ことを無意識のうちに諦めてしまった結果であると思っています。

ASDは本来とても感情豊かである

一般的なイメージと異なり、ASDは感受性がとても強く豊かな感情の持ち主が多いと思います。多くの人にとっては「ふーん」と思うような何でもない光景やストーリーに「美しい」「泣ける」と一人で感動し泣いてしまうASDも少なくありません。
また意外に思われるかもしれませんが相手の感情に激しく動揺し落ち込むASDも少なくありません。私も子供の頃は親や先生から叱られる度に叱られた内容よりも相手の声のトーンや表情のほうが印象に残ってしまい「また叱られちゃった。嫌われちゃった」と落ち込んで泣いてばかりいました。
父からも「Luは感情的過ぎる」と度々注意されたものです。

多数派と異なるASDの感覚が感情にも影響する

ASDは感覚過敏と鈍麻の共存により、同じものに対して多くの人と異なる印象や感情を持つ場合があります。本来「感覚」と「感情」は別ものですが、自分の感覚が多数派と異なっていると、そこから派生する感情もおのずと多数派と異なってくることは大いに考えられるでしょう。
例えば、今自分が置かれている環境一つとっても
他の人にとって退屈でつまらないと思う環境が、自分には落ち着いてて心地よい。
他の人にとって活気があって楽しいと思う環境が、自分にはひたすらうるさくて苦痛だ。
と全く正反対の印象になる場合も少なくはありません。

また、感覚のアンバランスから相手の感情を読み取るべき場面で相手の言葉のみに意識が向いたり、相手の言葉を理解すべき場面で相手の感情に過剰反応してしまうというチグハグもよく起こります。定型発達者であれば「感情」と「言葉」はセットで受け止められますがASDの場合は感覚過敏とシングルフォーカス特性(さらに視覚優位の場合は耳から情報を理解することの困難)により「感情」か「言葉」のどちらかに偏ってしまうように思います。
これはあくまで私(ADHD併発、視覚優位)の場合ですが、相手が話すとき「言葉」は単語の一部しか記憶に残らないことが多いので相手の「感情」だけ受け止め自分から話すときは感情を抜いて「言葉」だけ返していることが多いように思います。もっとも文字のやり取りの場合は口頭の会話より理解に時間をかけられるので相手の「感情」と「言葉」の両方を受け止めることができると思います。

自分の感情は「正しくない」と感じてしまう

多数派である定型発達者は多くの場合「楽しかった」「つまんなかった」という気持ちを他人にも「だよねー」「わかる!」と共感してもらえます。
子供のころから自分の気持ちを相手に共感してもらえる・受け止めてもらえる経験を順調に積み上げていけるので「私の感情は正しい」「人々は分かり合える」というのが他者との相互理解の出発点になります。

ところが、感覚のアンバランスから大抵の事象に対して多数派と異なる印象を持ってしまうASDが自分の気持ちを素直に人に言うと「えー、そう思っちゃうんだ~」とドン引かれたり場を白けさせたりします。最悪の場合「あなたとは合わない」と周りから無視されたりコミュニティの中で孤立することもあります。

また他の人なら悩んだり愚痴を言ったりするのを周りが「それはひどい」「可哀想」と共感してくれるのに、自分が同じように日頃の愚痴を相手に言うと共感されるどころか「それはあなたのほうが変だよ」「それは仕方なんじゃない」と冷静に反論されてしまう経験もASD当事者には多いと思います。ムカつくポイントやストレスに感じるポイントが多数派と違うからです。

このような経験を何度か繰り返すと、「自分が今感じている感情は正しくないんだ」と自分の感情そのものを否定してしまい、他人に何かを話すときは客観的事実だけを話したり「○○さんもそう言ってた」と第三者の感想を話すことでその場を切り抜けようとしてしまいます。
これは相手からすれば「○○さんじゃなくてあなたがどう思うかを知りたいのに」と不満に思う場面でしょう。

また、自分の感情を「正しくない」と長年抑圧してしまった結果「自分の気持ちがわからない」という状態に陥る当事者も少なくありません。

「論理性優先」は自分の感情を他者と共有することを諦めた結果

自分の気持ちがそのまま共感され受け入れられる定型発達者と異なり、ASD当事者が自分の気持ちを素直に人に言うと「え~普通はそう思わないよ?」と否定されたり「何でそう思ったの?」と説明を求められることが多いです。
このため、自分が直感的に感じたことを相手にもっともらしく説明するという習慣がついてしまいます。例えば他の人と異なった印象を持った理由について個人的な過去の経験を引き合いに出したり、過去に読んだ本の引用を使ったりして「これこれこういう経緯があって、私はこう感じた」ということを説明するわけです。
しかし自分の感情を相手に説明すればするほど、定型発達者が求める心からの共感やお互いの気持ちを通い合わせることとは遠ざかってしまいます。よくよく考えてみれば「解説」や「説明」のような、本来個人的感情が除外されたアプローチでもって「感情」を語るのは矛盾しているともいえるかもしれません。

このような経験から、次第に「自分の感情のことは自分の中にしまっておこう」と最初から感情抜きで事実やデータに関する話を好むようになります。
しかし相手が「感染者減ってよかったね~」と気持ちを分かち合おうとして話しかけているのに、その話に対して「検査数は何件で陽性率は何%だって」と事実だけ言って返してしまうと相手の「感染者が減って安心したと気持ちをあなたと分かち合いたい」という言外のメッセージを見落としたことになってしまい、相手をガッカリさせてしまいます。

「分かり合える」が出発点の定型と「分かり合えない」が出発点のASD

「私の感情は正しい」「人々は分かり合える」というのが定型発達者にとっての他者との相互理解の出発点であるのに対しASD当事者の場合は「私の感情は正しくない」「人々は分かり合えない」というのが他者との相互理解の出発点ではないかと思っています。

このため定型発達者がASD当事者と意思疎通が上手く行かないときに、よりストレスを受けるのは定型発達者の方であると思います。「人々は分かり合えるはずなのに私たちが分かり合えてないのはおかしい」と思うからです。
一方でASD当事者からすると「人々は元々分かり合えないものだから私たちが分かり合えなくても仕方ない」という感覚なので、定型発達者の「分かり合えない」ことに対するストレスや悲しみを想像できず「それはそっちの考え方の問題では?」と切り捨ててしまいがちです。
結果的に定型のパートナーに「私たちは分かり合えない」というストレスに加え「私側の問題なのか」という悩みも負わせてしまいます。

頭で納得できればそれでよしとしよう

結局、定型発達者とASD当事者とでは同じものを見ても反応するポイントや感情の動きが異なるため、お互い心から共感するというのはなかなか難しく「頭で納得できればそれでよしとする」が落としどころなのだろうと思います。しかし「言葉に感情が入らない」のはASDの元々の特性でなく過去の経験から後天的に形成されたものに過ぎないので、ASD当事者も自分の気持ちが無条件に相手に受け入れられる経験が積めれば、自分の感情について「自分の感情は正しいんだ/このように感じるのは正しいんだ」という自信が持て、話す言葉に感情が入るようになるのではないかと思っています。

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