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「自分で認識している自己像」と「本当の自分」とのギャップについて。

私は「自己分析」や「性格診断」の類が大好きでした。
子供の頃から「自分は何者か?」ということが常に考えていたように思います。母からは「あんたはいつも自分のことばかり考えている」、友人からは「自分が人からどう見られてるか気にしてばかりいるよね」と言われたものです。
自分は他の人と何かが違うという違和感や、実際に周りから「あなたは私たちと違う、変わってる」と言われてきたことから「自分は何が違うのか?」「何故他の人のようにできないのか?」ということが気になって仕方がなかったのかもしれません。
深層心理学や占星術、MBTIなど「本当の自分」を知るための手掛かりとなりそうなものは何でも飛びつき自分に当てはめていきました。

「内向的で臆病だけれど、温厚で協調性が高く直感がきき共感性が高い」というのが私が長年抱いていた自己像でした。

ところが実際には学校や職場で同級生や同僚たちから「おっとりしてるよね」「天然ボケだよね」と自己イメージに近いことを言われる一方で、「ハッキリ物を言うよね」「頭ガチガチに固いよね」「結構大胆だよね」と普段私が思っている「自分の性格」と真逆のことを言われたりして混乱したのでした。

最近Twitterでフォロワーさんたちとのやり取りを通じて、「どうやら本当の私は日頃『私が認識している自己像』とちょっと違うのではないか?」という疑問が出てきました。
本当の私は私が思ってる自己像とは逆に「自分のことが大好き」で他人に関心を示さないくせに承認欲求は人一倍強く、私が思っているよりはるかに物事を筋道立てて考えることができず話の矛盾を突かれればすぐ混乱し、自分が傷つくのを極度に恐れるあまり他者との親密な関わりを避けて安全な場所にしがみつきたがっているのだということに気がついたのです。

私が長年自分を「協調性があり共感力が高い」と認識していたのも「なりたい自分」「ありたい自分」であるに過ぎず、「人の意見にノーと言わない」「人の言うことを聞く」という単に受動的な態度を「協調性がある」、相手が本当に受け止めてほしい気持ちと関係なく勝手に感情移入するのを「共感力が高い」と勘違いしていたのでした。

このような「本当の自分」を自ら認めることには正直抵抗もあり、そこがまだ私にとっての「課題」なのかもしれません。
しかし長年混同していた「なりたい自分」と「本当の自分」を切り分けることができたおかげで、子供時代からの「自分は何者か?」と問わずにいられない癖をこの歳にしてやっと手放すことができたのではないかと思っています。

もっとも若い頃ほど生きづらさを感じなくなり、「自分は何者か?」ということを突き詰めて考える必要性を感じなくなったというのもあるのかもしれません。

おそらく私にとって本当に必要なのは、関心を自分の内面ばかりに向けるのでなく外に向けること、「相手から自分がどう思われているか」ではなく「相手が何を考えているか」を想像することなのだと思います。

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