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発達障害と「努力」について。

Twitterの発達界隈において、「発達障害を言い訳にするな」「発達障害でも努力が必要」という意見が定期的に現れます。私も4年前に発達障害アカウントを始めて以来「私は発達だけど努力して○○できた。○○できないのは発達障害のせいではない」という言い回しを何度も見かけてきました。

本当に努力さえすれば発達障害者のあらゆる困り感は克服できるのでしょうか?私なりに考察をしてみようと思います。

①努力が成果に現れにくい

発達障害者は努力できないわけではありませんが、一般的に「努力の成果がわかりやすい形で表に現れにくい」ということは言えると思います。
日頃の生活の中でも「頑張ったけどうまくいかない」「努力が全く報われない」と感じている発達の当事者は少なくないのではないでしょうか。

私自身、学生時代の先生たちや会社の同僚たちから「あなたは努力しても無駄」という意味のことを何度も指摘されてきました。曰く、
「一生懸命頑張っているけどうまく行かないことが多くそのことで悩みを大きくしている」
「努力は認める。でもそれだけでは通用しない世界があることを知ってほしい」
「あなたの場合は努力しても報われないと思う」
「Luさん努力家だけど要領悪いから残念だね」
等々、どこに行ってもダメ出しを食らうので正直「努力しても無駄なんじゃないか?」と思うことも多々ありました。

それでも「地頭や要領が悪くてもとにかく努力さえすればカバーできるんじゃないか」という思い込みから新卒から30代半ばまで連日のように深夜残業や休日出勤を繰り返していましたが、結果的に無理が祟ってパニック障害と鬱で休職を繰り返す羽目になり10年近くを棒に振ってしまいました。
めったに後悔はしない私にとって唯一の後悔です。

②何をどう努力したらいいのかわからない

上のようなエピソードを話すと大抵の人から「それは努力の仕方が間違ってるんじゃないの?」「努力の方向性がおかしいんじゃないの?」と言われます。
しかし、当事者からすると「何が正しい努力なのかがわからない」「今自分がしている努力が間違っているかどうかわからない」というのが正直なところではないでしょうか。
何しろ、他の人と同じような努力ではうまく行かないけど自分に合った努力というのは誰も教えてくれるわけでなく自分で見つけるしかないからです。それにはどうしても試行錯誤がつきもので、失敗経験の記憶が蓄積しやすい特性を持っている人の場合、それ自体がトラウマとなってしまいしまいに努力自体を諦めてしまっても責められないと思います。

発達障害の難しさは、その特性が
・歳と共に自然と軽減されるもの
・努力と工夫で改善されるもの
・どう頑張っても改善されないもの

と多岐にわたり全てが1つの方法で解決できないところにあります。歳と共に自然と軽減されるものは逆に言えば「歳を経ないと改善しない」といえますから、幼少期に訓練で改善しようとしても大きな進歩は見られず却って本人に辛い記憶を植え付けてしまいます。
このため「できる範囲で努力する」と「諦めて別の道を探す」のバランスが大事になってきます。

「目標」を明確にすることで無駄な努力を避けられる

発達障害の問題を克服するには「努力」と「根性」以上に「自己分析」と「工夫」が必要だと思います。自分の特性や元々の性格を見つめ「何を頑張ったら良いか」を考えずにひたすら「とにかく頑張れば何とかなる」と根性論で突っ走ってしまうとかつての私のように鬱等の二次障害で苦しむ可能性が高くなるからです。

「とにかく頑張れば何とかなる」と突っ走る前にWAIS等で「自分の得意・不得意」を見極めたうえで「自分の目指す目標」を明確にするのが大事だと思います。
周りの定型発達者のようになりたいのか?それとも多数派とは異なる自分なりの幸せを追求したいのか?友人がたくさんほしいのか?少数の友人で充分なのか?年収1000万以上稼いで都内に住みたいのか?そこそこの年収で地方で暮らしたいのか?結婚して幸せな家庭を持ちたいのか?一人で自由に暮らしたいのか?等々。目標が具体的になればなるほど「必要な努力」と「必要でない努力」の見極めが容易になります。

発達障害者の「周りに合わせる」努力というのは丁度アルコール耐性の低い人が飲み会の空気を壊さないようにひたすらお酒を飲む練習をするようなもので、頑張ればそれなりに飲めるようにはなるけど元々お酒の飲める人に比べてどうしても身体への負担も大きくなってしまいます。体質(特性)を全否定するような努力はすべきではありません。
お酒の飲めない人が「最初の乾杯の一口だけビールで後はウーロン茶」や「ノンアルコールビールやノンアルコールカクテルで参加」という工夫で飲み会を楽しむように、発達障害の特性を全否定せずに周りと調和する方法を考えるのが「努力の方向性」としては適切なように思います。

私は車が運転できないので、車でしか行けないような観光地やお店には行くことはできません。人によっては「頑張って免許取得すればいいのに」と思うかもしれませんが、私の特性や過去の複数回の交通事故経験から車を運転したら高確率で事故を起こすことがわかっているので運転免許を取るつもりはありません。
その分、公共交通機関で行ける範囲の観光地をたくさん回っていますし、それで満足しています。

自分が楽しめない努力はしない

努力が結果に結びつきにくい特性があるとどうしても「結果が出る努力でないと意味がない」と思って最初から努力を放棄してしまいがちです。
特にASDとADHDの併発型の場合、ASD由来の「結果が出るかわからないことに対する不安」とADHD由来の「結果が出るまで努力を続けるモチベーションの困難」のために結果が出る前に挫折しやすいのではないかと思います。

このため、努力の継続のためには「結果にこだわらず努力自体を楽しむ」「自分が楽しめない努力はしない」と割り切ることが大事ではないかと思っています。ある目標のために好きでもない努力を続けても、その目標がかなわなかったときにその努力自体を無駄なものと思ってしまうからです。
「下手の横好き」を続けた結果いつの間にかそれなりにうまくなっている、ぐらいでいいいのかもしれません。

私はWAISの全IQもそんなに高いというわけでなく発達障害だからと言って別に特別な才能があるわけではないですが、「特別な才能」よりも「地道に努力を積み重ねて築き上げたスキルや知識」に安心感を覚えるタイプです。
元々「何もしなくてもできてしまうこと」というのは何もしなかったらある日突然できなくなってしまうような気がして怖いですし、また試行錯誤の積み重ねから「この方法では何故うまく行かないのか?」を人に説明することもできるからです。

発達障害を改善する努力を「人のため」と考えすぎると苦しくなります。まずは「自分が生きやすくなるため」と考えて、努力する気力がないときは休む、努力したいときに努力してみる、ぐらいの強度でゆるゆると続けるのがよいのではないでしょうか。

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