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「困り感のないASD」について。

「カサンドラ症候群」(←配偶者と情緒的な交流が持てないために心を病んでしまう既婚者)の配偶者の多くは未診断のASD当事者とされています。
本人の困り感がないためにASDの自覚もできないので診断や適切な支援につながらず、配偶者だけが困り感を抱えて苦しむという状態です。
最近このような方のツイートをよく目にするのですが、失礼ながら個人的な第一印象は「ASDなのに困り感がないっておかしくない?」というものでした。
私自身が子供の頃からASDの特性ゆえにうまく人と関わることができず孤立したり様々な感覚過敏や体調不良に苦しんだりしていたからです。
むしろ30歳あたりまで「困り感しかない」という感じでした。

しかしASDが「スペクトラム」であること、本人の元々の性格や環境によっては「困り感がない」人もいてもおかしくはないだろうと思うようになりました。事実私の職場や親族も日頃の言動にASD的な要素が感じられる人達が割といるにもかかわらず、本人たちは特に困ってないようなのです。彼らの多くは順調にキャリアを積み結婚もしています。

それでは「困り感のないASD」とはどんなタイプなのか、私なりに考えてみます。なお、私自身は「困り感のあったASD」なので以下の考察はあくまで想像でしかないことを御了承ください。

①グレーゾーンである

困り感のないASDはグレーゾーンの人が多いのではと思っています。カサンドラ症候群に悩む定型発達者はASD配偶者について異口同音に「結婚前は外モード(←人付き合いのために定型発達者のように振舞う状態)だったのでこちらも見抜けなかった」と言います。
しかし診断のつくレベルのASDの場合はどんなに定型に擬態しても周りからは「この人何か変わってる」とASD由来の違和感を見抜かれてしまいます。頑張って話題や会話のノリを相手に合わそうとしても視線の動きや声の抑揚における不自然さまでは隠しきれません。
定型発達者も気づけないほどの「外モード」を身につけるには本人の側に定型の感覚がある程度想像できてないと無理なので、想像力の欠如が診断基準の一つであるASDからするとこのタイプは限りなく定型に近いグレーゾーンではないかと思われるのです。

確定診断済みの私はついつい「グレーゾーンなら私なんかよりずっと定型に近いからいいよね」と思ってしまうのですが実はグレーゾーンにはグレーゾーンゆえの難しさもあるようです。
これはあくまでTwitterを見ただけの推測ですが、グレーゾーンで困り感を抱えているのは女性が多い印象です。横並び意識の強い女性コミュニティーの中で何とか「外モード」で適応していても心の中では絶えず違和感を抱えてしまっている人が少なくないと思います。
医者に相談をしても確定診断がつかないので、「障害ではなく自分の性格の問題なんだろうか?」「努力不足なんだろうか?」と自問自答し自分をさらに追い詰めてしまいます。
しかしグレーゾーン男性の場合は元々ASDが「男性脳」と言われるように多少のASD的な言動は「男性はみんなそういうところがあるよね」と周りからも大目に見られやすいので本人も困り感を感じにくいのではないでしょうか。

②ADHDやDCDを併発していない

困り感のないASDの多くは学校の成績が良く、かつADHDやDCD(発達性協調運動障害)を併発していないタイプだと思っています。子供の頃に問題になりやすいのはASDよりもADHDやDCDの方だからです。
ADHDは以前の記事でも書きましたが数々の問題行動(遅刻・忘れ物・先延ばし・多動・居眠り等々)で先生から叱責されることが多く、DCDがあると身体をうまく動かせず体育の授業や休み時間の遊び等で他の生徒たちから散々笑われたあり馬鹿にされることが多いため、どうしても劣等感を抱えてしまいます。特に女性の場合DCD由来の手先の不器用さは「がさつさ」ととられてしまいがちなので困り感は大きいです。

この点、ADHDやDCDのないASD当事者は先生から叱られることもなく学校では「ちょっと変わってるけど優等生」ポジションとして平穏に過ごしていた人が多いのではないでしょうか。①のように定型に擬態できるタイプであれば「ちょっと変わってる」の部分も隠せてフツーの「優等生」として振舞うことも可能だと思います。
実は私の父や父方の親戚がこのタイプではないかと思っています。相手の気持ちなどお構いなしに失礼なことをズケズケ言う人たちなのですがスポーツ万能で手先も器用で友人もそれなりにいて仕事も定年まで全うしているので、自己評価も高くはたからは困り感があるようには見えません。ADHDもDCDもがっつり併発してしまった私からすると羨ましい限りです。

③適性に合った仕事についている

困り感のないASDは仕事では問題なく過ごせていることが多いと思います。比較的自由な社風の会社で居心地が良かったり仕事が本人の適性とマッチして成果もそれなりに挙げているのかもしれません。社会性の困難により就活の面接や入社後の実務でつまずくことの多いASDの中にあって極めてラッキーな人たちだと思います。

「自分は仕事では上手くいっているのだから、家庭が上手くいかないのならそれは自分でなく相手に問題がある」と考えてしまう人がいてもおかしくはありません。
しかし実はASDにとってプライベートの人付き合いよりも仕事のほうが他者とのコミュニケーションはずっと楽なのです。家庭や恋愛において相手の言外の細やかな感情表現を理解し口に出さない相手の気持ちを察したりすることが求められるのと違い、仕事に関する連絡や要望は双方誤解のないように全て言葉にし、かつ(大抵の場合は)記録に残すことが求められるため、相手が何を望んでいるかを理解することは容易だからです。
また多少性格的に変わっている人でも仕事で人から求められていることをきちんとこなせば文句は言われません。「誰も文句を言われたことがないのだから自分は問題ないはずだ」という発想になってもおかしくはないと思います。

④実は困っているが自分だけではないと思っている

これは割と盲点だと思うのですが、「確かに困ってはいるけどみんな同じでしょ?」と勘違いしているものも少なくないと思います。みんな同じように思ってるだろうから別に大したことではない(自分がわざわざ言うことではない)、という発想です。
自分の感情を適切な形で表現することに心理的なハードルを感じる受動型ASDの場合は特にこの傾向が強いと思います。

私もつい数年前まで「カクテルパーティー効果」(雑音の中から目的の会話だけ取り出して聞き取る能力)の存在を知らず、「周りの音がうるさければ人の話が聞き取れないのは当たり前」だと思っていました。周囲に雑音があれば人の声が周りの音と混じるから聞き取れないというのは論理的にもっともだと思うからです。
そんなある日、多くの人は脳の働きにより賑やかな場所でも問題なく会話が聞き取れると知ってショックを受けたものです。ここでやっと「人の話が聞き取れない」は「誰もが抱えているであろう困りごと」ではなく「私自身の困りごと」となったのでした。

「困り感のないASD」から「困り感をコントロールできるASD」へ

上述の「雑音の中では人の話が聞き取れない」という感覚といい「人々は元々分かり合えないもの」という感覚といい、自分にとって当たり前でみんな同じだと思っていたことが実は当たり前でなくそう思っていたのは自分だけだった、という事実を突きつけられるのはなかなか辛いものがあります。
しかしその事実を突きつけられる機会がなければ自分がASDであると自覚するきっかけも得られず診断にも結び付かないでしょう。
「本人が困ってないものを「アンタは本当は困るべきなんだよ」とわざわざ気づかせるのはどうなの?」と思われるかもしれませんが、一方だけが辛さを抱えているパートナー関係はいずれ長続きしません。相手と良好な関係を今後も長く続けたいと思うのなら自分の特性を自覚し相手と真摯に向き合うことが大事だと思います。「困り感のないASD」から「困り感をコントロールできるASD」になることが、ASD本人とパートナー双方にとって望ましい結果につながるのではないでしょうか。


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