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ジェローム・ベル『Galaーガラ』

http://www.saf.or.jp/arthall/stages/detail/4148

楽しみにしていた、Gala、みてきました。

どこからどう、感想を述べたらいいのか分からないけれども、やってみます。

世界中の、色んな「劇場」の写真が幕に移し出されました。ゴージャスな劇場、段ボールでできた劇場、仮設の劇場、アラビア語や中国語が書かれている劇場、景色の良い劇場、古代の劇場、芝生に椅子が置いてあるだけの劇場。そこで、わたしは、「当たり前のことだけど、世界中に劇場はあるし、演じるスペースと観るスペースさえあれば、劇場だし、そこにそれはすべて「劇場」であるけど、でも全部違う「劇場」なんだよな」ということを思いました。

Galaには20人の出演者がいました。
老若男女、痩せている人から太っている人、日本育ちじゃないかもしれない人、人種の違う人、何か障害を持っているかもしれない人、ダンサーっぽい人、そうじゃない人…多様な日本の人々が、その人自身として舞台に存在しています。

その出演者20人が、1人ずつ出てきたり全員で出てきたりして、全員が同じお題でさまざまなスタイルの踊りを披露して、”上手”だったり、そうじゃなかったりする、それだけの構成です。

20人くらいだと、それぞれの個性を観客側が認識をして、「”あの人”のこの踊りはどんな感じになるのかな?」と楽しみになったりとか、「なるほど、この人は、このスタイルのダンスのプロだったのね!」とか、個々人をこちら側がパーソナライズをしていく感覚があったように思います。

それだけでなく、だんだんと、「この人はあんまり”踊れない”人だ。」とパーソナライズしてしまったりします。でも、当たり前だけど、目の前で踊っている人を”踊れない”とラベリングするのは完全なる矛盾で、その人は確かに”踊っている”のです。
では”踊りの出来”というのは踊り自体とは無関係なのか?すべての人が”踊れている”し、どんな踊りでも”完成された踊り”であると見るべきなのか?見なければいけないのか…? そんな気持ちが沸き上がってきます。

ただ、わたしはどうしても、それぞれの出演者の”踊りの出来”をジャッジしてしまうし、それは受け入れざるを得ない事実である、ということを、見ている最中に意識しはじめました。

なので、途中からは、出演者の多様も受け入れるだけでなくて、『私の中の心の動きも受け入れよう』という方に舵を切りました。拍手したい時にするし、笑いたいときに笑うし、歓声を上げたいときにあげる。わたしはすべての人を平等には扱ってないかもしれないけれど、自分に起こる様々な感情に対してはすごく平等になって、鑑賞することができました。

実はこの作品、前の職場の企画会議にあがっていたので、別の都市のバージョンを見ていたので内容は知っていました。ただ、その時は、単純に、『多様性を可視化して認め合える、素晴らしい作品!』とだけ思っていたので、まさかこんなに自分に葛藤が生まれ、そしてその葛藤をも受け入れるようなドラスティックな内的思考の変化が生じるとは思いもよりませんでした。

わたしは人を見かけで判断してしまうこともある。
人によって反応を変えてしまうことだってある。
でもそれがわたしだし、受け入れざるを得ない。
多様性を理解するにはもっと時間が必要だ。

それが今回、この作品をみて、わたしが学んだことでした。

ほんとうは、劇場写真のスライドを見たときに思った「当たり前のことだけど、世界中に劇場はあるし、演じるスペースと観るスペースさえあれば、劇場だし、そこにそれはすべて「劇場」であるけど、でも全部違う「劇場」なんだな」の『人』バージョンが結論だったら良かったのかもしれないけど…。

とにもかくにも、こんなに素晴らしい作品を招聘してくれた、さい芸の皆様に感謝しかないです!!!ありがとうございました!!!

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