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梨木香歩の綴る世界から

ふらりと立ち寄った本屋で、引き寄せられるようにして本を手に取った経験が、読書好きなら誰しもあると思う。
『やがて満ちてくる光の』という、梨木香歩さんのエッセイも、私にとってはその類の本だった。

昨年の暮れから、梨木香歩さんの作品を読むようになった。日暮れの吉祥寺を行く先も決めずに歩いていた時、紫のオーニングを降ろした一軒のお店が目に止まった。まるで絵本の世界に迷い込んだかのような店内の装いが、日の沈みかけた闇の中で、安心させるような柔い光をたたえて浮かび上がっていた。わくわくしながら中に入ると、そこは「緑のゆび」という絵本屋さんだった。


『こぐまちゃん』や、『11ぴきのねこ』といった児童書を出版した「こぐま社」の社長を務めていた玉越さんのお店で、そこで出会った本が梨木香歩さんの『岸辺のヤービ』だった。
教えている生徒の本好きを思い出して、彼女の喜ぶ顔を思い浮かべながらその本を購入した。玉越さんも、梨木香歩さんの児童書を素晴らしいと仰っていたし、何よりその本が彼女のこんこんと湧き出る読書欲を満たすことは確実だった。

梨木香歩さんの著作では、『西の魔女が死んだ』が代表作といえる。数冊読んだ時点で抱いた彼女の印象は、とても繊細、野性的、辛辣、そしてしたたかな方である。『西の魔女が死んだ』では、梨木さんの辛辣かつ物事の本質から逃げることのない、ある意味ひねくれている人の特徴とも言えるしたたかさを窺い知ることは難しい。
それもあってだろうか、立ち寄った本屋に並べられた数多くの文庫の中からふと手に取った、午後のやわらかな光の中にすっくと立つ灯台の絵を装丁した『やがて満ちてくる光の』が梨木さんのエッセイであると知った時、心が泡立つような心地がした。

作品に惹かれるというより、作者の人柄に興味を持ちながら本を読む私にとっては、エッセイを読むことは宝箱を開ける気持ちになることであり、同時にそれがパンドラの箱を開ける緊張感を覚えることでもある。
ましてや、梨木さんは読者に「逃げ」を許してくれない。婉曲した表現やオブラートに包むことで人を傷つけないという手段が、時として美徳になり得ないことを知っている方だと思う。
なので、やはり書かれていることの中には、読者の核心を突いて、見過ごせない痛みを感じさせるものもあるのだ。

大事に、時間をかけてこのエッセイを読み進めた。エッセイから何を感じ取るかは、読者の特権でもあるので、ここで私の主観的な意見を言うのは控えようと思うが、日々の暮らしに少しの楽しみを見出せなくなってしまった方、物事の捉え方に限界を感じている方、そんな方たちに新しい風を吹き込んでくれるエッセイだと思う。

私がこの本からたまらなく好きだったフレーズを幾つか載せておく。

執着と、守ろうとする意志の間は紙一重で、ただこの頑なさがプラスにもマイナスにも働いて、私の人生を仕様なく象ってゆく。

守りたかったもの

自分で動く必要のない、便利の極みになったら、ひとは夢見る石ころのようなものではないか。...便利さと引き換えになった大切な何か、その「何か」こそがつまり、生きものが生きている証なのだろう。

遠くにかがやく 近くでささやく『大切なことを学びつつある気がする話 2』

袖口などから、色調ぐらいは垣間見えることがあっても、その全貌は決して表だって明らかにされない。その安心感の上に展がっていく、「個性」というもの。

1998、1999年のことば  『長襦袢は思想する』

その人が最盛期を過ぎて、溶けかかったキノコみたいに自滅の道をたどって消えてゆくみたいな事になっても、そういう変容の仕方、過程を最後まで見届けることでしか、人間の本質はわからないと思うんです。

生まれいずる、未知の物語『行き止まる同一線上のコンテキスト』

アクは強すぎると辟易するが、適度に残すと季節のアクセントになる。アクのない野菜ばかりが並ぶスーパーの陳列台は寂しい気がする。人の場合と似ている。

食のこぼれ話 『アクを抜く』

非常時、という言葉を合図に、あっというまに心ひとつにまとまる民族、他国のメディアも賞賛するという、そのみごとさの、勢いに乗じて、伝えられるあの戦争中の空気が、...再び醸成される気配を、その言葉に強く危惧したのです。緊張し過ぎてはならない。...「勢い」を、「真摯に人を思う」、そこで止めておかなければならない。個人を、群れに溶解させてはならない。

丁寧に、丹念に

梨木香歩さんの、日々を丁寧に汲み取りながら、しかし違和感を厳しい姿勢で無かったことにせず直視するその生き方に、いつだって憧れを抱いている。

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