見出し画像

映画「真夜中乙女戦争」

公開初日「真夜中乙女戦争」を観た。原作は未読だが、Fという人物の青春犯罪小説とでも定義すればいいのか、物語である。
劇場には若い女性がとても多く、なるほど主演の永瀬くんはジャニーズだと気づく。彼の大学生ファッションはとても可愛かった。真似できるスタイルだし(細身の方に限るけれど)参考にする人も多いのではないか。
以下、ネタバレも含むレビューになるので未見でそれらを目にしたくない方はご注意いただきたい。

1.あらすじ

「私」は、ただふつうの暮らしを夢見て大学進学し上京。平凡な家庭にその生活は決して楽ではなく、奨学金を利用する上にアルバイトをする日々。割りのいいアルバイトは早々にクビになり、劣悪でブラックな深夜バイトに身を削る日々。ぼんやり講義の席について思う、これは本当にやりたかったことなのか、この教授の講義は授業料に見合ったものなのか。
そんな折、何かを変えたくて入部希望したかくれんぼ同好会。そこには美しく聡明な女性「先輩」がいた。と同時に、退屈な日々から自分を無理矢理引き剥がしてくれそうな男「黒服」にも出会い強烈に惹かれる。

2.物語は「私」から始まり、「私」で進行する

主演の「私」を演じるのは永瀬廉。端正な顔立ちではあるけれどその表情は乏しく、退屈極まりない人生に疲れている。
その顔立ちならばもっといい青春送ってきただろうなと思わせ、やや説得力には欠けるのだけれど、この物語は「私」に自身を投影できる人にとっては没頭しやすいだろう。冒頭、くるりと反転した東京の街から、背中を舐めるように私の姿に移動する。そこから「私」の世界が開始した。
目の前では講義が続けられているが、明らかに「私」の瞳には熱がこもっていない。
「私」は教授に問う、自分の母親のパート代三時間分の講義をあなたはしている自覚がありますか、と。

そんなに疑問に思い退屈ならば大学進学なんてしなければいいのに、と思うけれど、確かに覚えがある。自分も世間の常識というものに沿うように、深く考えもせずに高校、そして短大と進学の道を選んだ。なぜ短大にしたかと言えば、そのころ周囲の女性が多く選ぶ道だったからだ。四大に行く女性はそれなりに勉学に秀でて、何かしらの目標があるような一部の強い女性であったという印象が深い。今から30年程度遡る話ではあるけれど。

特に大層な理由もなく、普通科の高校に進学したゆえ、そこから短大に行き卒業時期には就活をする、というのは最も定番で楽な生き方だった。周囲から「どうして?」と聞かれることもない、就職しある程度の年齢で結婚し、そして子供を2人くらい作って平凡に暮らすのだろうな、というぼんやりとした未来があった。ただそれに乗っかっただけだ。

今はそれが周囲に抗わず生きていれば乗っかれる人生ではなくなっているのではないのか。となると「私」が希望するふつうの暮らしが、頑張らなければ得られない生き方になっているのかもしれない。「私」は切望する生活は簡単に得られないことが肌感としてじんわりわかっている。はっきり絶望もしないけれど、希望を見出すには材料が少なすぎる。そんな世界に、今自分はいる。さて、どうするか。


3.「先輩」との出会い

かくれんぼ同好会というサークルの入部希望者は、なぜか不思議な面接を受けさせられる。そこで「私」に当たったのが美しく怪しい魅力のある「先輩」。まるで塀の向こうとこちら、退屈なところから出してくれと懇願する「私」の目の前には壁を隔て、声も受話器越しの「先輩」の世界がある。
幸運にも、入部を許された「私」はひたすら隠れ、自分を見つけ出してくれる存在を待つことになった。
かくれんぼは、自分の存在を言い当て、探し出してくれる究極の自己肯定の遊びである。


ただし「私」は同時に出会ってしまう。密かに大学に怪しい仕掛けを施している「黒服」という存在に。

4.「私」の覚醒

「黒服」は言わば人生の成功者。過去の成功の糧が潤沢にあり、することもなく何となく大学に通うことにした、「私」とは対極にいる存在。
「私」はこれから続くであろう絶望的に退屈な毎日が、弾けるように粉々になる夢を見てしまう。それは「黒服」が仕掛けた罪によるもの。
「私」は「黒服」のペースにまんまと乗せられた。そしてそこには同じように、退屈な日々に窒息しそうになった人々の溜まり場となる。

これはおそらく、「黒服」の壮大な罠だ。「私」はつけ込まれた、退屈で失望していてこの世に未練がなさそうな若者、そこに染み込むように「黒服」の望みが「私」を変えていく。

1人のカリスマがいて、そこに群がる、システムに反発し、力を持て余した若者。思想はたやすくコントロールされ、扇動されあたかも自分たちの意味だと思わされる。

あぁ、これはテロの話なのか、と途中から感じる。

愛する人の気持ちがわからない、思いが届かない。日々は思うようにいかず、自己肯定を膨大に上回っていく自己嫌悪の量、自分は底辺だとつくづく感じる。鬱屈した思いは振り切って簡単に反対側に行ってしまう。

人が人を罵る、傷つける、踏みつけるという行為は、その人以外の誰かのツケである。それは偉そうにしている奴らなのか、それとも社会全体なのか。

煽られ、立ち上がり、それは戦争という計画に行き着く。底辺で退屈で死にそうで何もかも変わらないと絶望しているならばその根源を爆破してゼロにすればいい。そして何もかもゼロから作り替えたらいい。

争いごとの発端は、案外自分たちの一番身近なところにあるものかもしれない。ほんの小さな、孤独な不満のような。

5.愛は、地球を救う、のか。

「私」はなぜ、美しく聡明な「先輩」への愛で止まることができなかったのか。

明日東京が爆破される、どうか逃げて。

どうしてそんなふうにしか、愛を自覚することができなかったのか。
愛は誰かを救えるのか、愛は生きる糧になるのか、愛は生きる意味を与えてくれるのか。それは破壊や死ぬことでしか見出すことはできないのか。

この物語の終わりは決して幸せではない。「私」は後悔している。自覚した感情も、幸せには結びつかない。

ただし、破壊の世界はもう一つのパラレルワールドなのだと、後半、黒服に出会う前の「私」の場面でそれが提起されているように思う。
そこには「先輩」に出会う直前の「私」が出てくる。本編では「黒服」に出会う「私」が、リアルの世界では「先輩」に会う暗示を匂わされている。なぜこのシーンの方がリアルなのかと言えば、出てくる人が皆マスク姿だからだ。

今この世界では、マスク姿の人物を描くだけで「これは今の話なのだな」と思わされる。人々に共通の認識が植え付けられ、用意に時間を表すことができる、そのアイテムを今の私たちは手に入れているのだから、皮肉なものだ。
人の思い込みを作り、常識を植え付けることは、案外簡単で楽なことなのかもしれない。強い言葉や哲学的に説くだけで、それは何かしら意味のあるものに聞こえる。それを無意識にやってしまえる人がいる。
ただし、それが使えるからと言って、その人自身が幸せであるかどうかは別の問題なのだ。

6.鑑賞後感想

鑑賞後、劇場の明かりが灯ってからも同じ空間にいる人からは言葉が漏れ出てこなかった。見た後に容易に語れない、そんな類の物語であるように思う。難解で咀嚼するのに時間がかかる、そういう種類の話だ。
そう、ひと頃、ミニシアターで上映されていたような空気感がある。ちょっとこちらを突き放したような話で、好き嫌いははっきり分かれそうだ。

ただし、永瀬廉くんが「黒服」をやっても良かったように個人的には思った。彼の大学生姿はナチュラルでとても良かったけれど、端正な顔立ちは非モテで不運なキャラクターに完全には見えないというのもあるし、「黒服」のような得体の知れなさに彼のようなアイドルが成り代わるのも違う化学反応があって面白いような気もした。

ラストの、「私」と「黒服」のキスシーンも、永瀬くんが受ける方が絵的に説得力が増すような、そんな感じがする。

チャーミングでどこか魔性の色気がある「先輩」は池田エライザが見事に演じ切っていた。恋人がいながらも、「私」を引きつけて離さない、ナチュラルにそれをしてしまう。そういう女性はどの時代にもどんな場所にも1人くらいいるものだけれど、その普遍的な魅力を嫌味なく体現していた。

一生愛す、と言われるよりも、一生許さない、と言われた方がゾクゾクするということもあるのだろう。
ただし私は許されたいし、愛されたい。だから日々、壊さないで守る側にいるのだと思う。

今世界は破壊されている、絶滅に導かれている、けれどそれはもう一つの世界のお話。さて、ここにいるあなたは、これからどうする?


サポートをいただければ、これからもっともっと勉強し多くの知識を得ることに使います。