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温かい祖父母の記憶

私が子どものころ、家から徒歩30秒のおばあちゃん家に、よく遊びに行った。

おばあちゃん家は、「下駄屋」。いわゆる靴屋さんで、おじいちゃんが下駄職人で、店の後ろの狭い作業場で、裸電球の下、カンカンカンッといい音を立てながら、手際よく、下駄を作っていた。      

おじいちゃんは、傘の修理もできた。
私が小学1年生になるとき、私の学習机も、おじいちゃんが作ってくれた。

「おじいちゃんのくしゃみは、ものすごく大きくて、道路二つ挟んで、店まで聞こえるんだよ」と、おばあちゃんが教えてくれた。

おばあちゃんは、料理、裁縫、なんでもできて、私のワンピース、スカート、着物やはんてん、座布団にふとんまで作ってしまう、魔法使いのような人だった。 

もう、おばあちゃんの五目ご飯、お赤飯、ぼたもち・・食べることはできない。

おばあちゃんとおじいちゃんは、いつも一緒だった。店番の席にふたりで座って、おやつの時間に一緒にお茶を飲み、お茶菓子を食べた。私がいると、おじいちゃんは、売り物のクランチチョコレートをときどきくれた。

テレビで、再放送の時代劇をふたりと一緒に見るのが私は大好きだった。

昔、記念日にスイートテンダイヤモンドを奥さんに贈りましょうというコマーシャルが流れていて、おばあちゃんが「50年だから、50個のダイヤモンドだな」と、冗談を言うと、おじいちゃんと私は、おばあちゃんがかわいくて、笑った。

ふたりは、いつも一緒にいて、交わす言葉が少なくても、穏やかに笑っていた。

あるとき、おばあちゃんが、人工関節を入れる手術で入院したとき、おじいちゃんは、車で50分かかる道のりを、自転車で毎朝通った。毎朝、おばあちゃんの顔を一目見て、帰る。それが、おじいちゃんの日課だった。

また、あるとき、おじいちゃんが、畑仕事中に鍬でけがをし、町内の病院に入院した。
すると、おばあちゃんが熱を出し、同じ病院に入院することになった。
同じ病院に入院することで、ふたりは安心したようだった。


晩年、おじいちゃんは、認知症になり、徘徊した。脚は達者だったから、速足でどこかに行ってしまう。
一度、帰って来なかった日もあった。町内放送をかけてもらい、次の早朝、海岸のテトラポッドの影から出てきたところを、釣り人に助けられた。
そして、また徘徊していたところ、転んで頭を打ち、寝たきりになり、亡くなるまで入院していた。


大学生になった私は、おじいちゃんを見舞ったとき、顔を拭くため、温かいタオルをおじいちゃんのおでこに当てた。
おじいちゃんは、「ほーっ」と梅干しを食べたような顔をした。

おばあちゃんは、頭はしっかりしていて、腰は曲がってしまったけど、長生きした。
「腰が痛い」と言っていたが、食べ物もしっかり食べられた。

年を取って、弱ってくると、「いつ、おじいちゃんは迎えにきてくれるのかな」と言った。
デイケアにときどき行っていた。

あるとき、私の母に、おばあちゃんは、「この日になったら、もう会えないよ。」と言った。「何でよ?」と聞く母に、「後で分かる~」と、おばあちゃんはいたずらっ子のように笑った。

そして、その日、デイケアに行き、おやつを食べているとき、おばあちゃんの呼吸が止まった。
おばあちゃんが亡くなったと聞いて、私がおばあちゃん家に駆けつけると、おばあちゃんは、お布団に寝ていた。
おばあちゃんのほっぺをそっと触ると、とても柔らかかった。
おじいちゃんが、迎えに来たんだね。
93歳の長寿だった。

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