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命より大切なものは・・・ある

【 自己紹介 】

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このブログでは、2019年7月にうつ病を発症し、それをきっかけに同年12月からブログを始めて、それ以降、900日以上(ほぼ)毎日ブログ更新してきた、しがないサラリーマン弁護士である僕が、日々考えていることを綴っています。

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【 今日のトピック:自分の命より大切なもの 】

タイトルのとおりです。命より大切なものがある、ということについて書きたいと思います。

そもそも、自分にとっていちばん大切なものが何かを決めるのは、ほかでもない自分自身です。何を大切に思うのかは、ひとりひとりが自由に選ぶことができます。これが、近代社会のルールです。

家族を大切に思ったり、恋人を大切に思ったり、ペットを大切に思ったり、はたまた、自分自身を何よりも大切にしたり。

それは、自分が自分だけで決めていいです(とはいえ、誰かに相談しながら考えたほうが、結局は、自分にとってよりよい結論にたどり着くとは思います)。

だから、自分の命をいちばん大切に思ってもいいし、自分の命とは別に、もっと大切なものがあると考えてもいいのです。

で、その考えは尊重されなければなりません。考えを他人に押し付けるのは、ルール違反です。

押し付けようとしたいなら、それはそれで勝手ですが、押し付けを断られたら、それまでです。

この「押し付け」が、今日のテーマと絡んできます。「命」を盾に、自分の主張を正当化する場面です。

これは、「命を自分で処分できるのか」という哲学的な問いにつながります。

まあ、取り返しがつく範囲の命なら、処分していいと思います。例えば、爪や髪の毛です。爪や髪の毛も、自分の命の一部ですが、後から後から生えてきますから、ゴミ箱に捨てたっていいです。

でも、取り返しがつかない範囲で、命を処分していいのでしょうか。

素朴に考えれば、取り返しがつかない範囲で命を処分するのは許されない感じがします。

ただ、オランダやスイスでは、安楽死が合法化されていて、本人が、自分の意思に基づいて、自分の好きなタイミングで人生を終わらせることが許されています。

もちろん、安楽死が合法となる要件が法律に定められているので、「自殺する自由」なんてものがあるわけではありません。

安楽死を許容してもいい(本人が、自分で命を処分してもいい)ような、例外的な場面を法律に規定して、その例外的な場面に当てはまるのであれば、安楽死が合法となる(安楽死を実施した医師に犯罪が成立しない)という仕組みになっています。

こう考えると、おそらく、たいていの場面では、取り返しがつかない範囲になると、自分の命を自分で処分することができないんだと思います。

確かに、「自分の命なんだから、いつでも自殺していいでしょ」というのが常識になっている社会は、素朴に考えておぞましいです。

命を粗末に考えていい、というのは、なんか違う気がします。

ただ、じゃあ、「常に、あらゆる場面で、命が何よりも優先されるのか」というと、話は別でしょう。

典型的な例は、現在、ロシア軍と戦っているウクライナ兵士です。

ウクライナ兵士たちは、間違いなく、国を守るために命を処分しています。

というか、フランス革命以降、国を守るために命を捧げることが、ある意味「常識」になりました。なぜなら、そのほうが、強いからです。

ナポレオン率いるフランス軍は、周辺国家を蹂躙し、モスクワに迫りました。フランス軍が、周辺国家を飲み込んでしまえるほど強かったので、ナポレオンは「皇帝」と呼ばれるようになりました。1つの国家(または民族)を統治する「国王」ではなく、複数の国家・民族をまとめて統治するほどの立場となったから「皇帝」と呼ばれるようになりました。

「ローマ皇帝」にならって「皇帝」としたのです。

このようなナポレオン率いるフランス軍の強さはどこからやってくるかというと、ナショナリズムです。「フランス国民のフランス国民によるフランス国民のための国家」という感覚が人々に共有され、兵士に共有されたからこそ、「自分の国を守るために命を捨ててでも戦う」という観念が生まれました。

当時、ほかの国々では、国王がお金で雇った傭兵たちが、あくまで、国王一族の命や土地を守るために戦っていただけですから、国民国家の兵士たちとはやる気が全然違います。

だから、「自分の国のために命をかけて戦う」と思っていたフランス軍は、めちゃくちゃ強かったのです。

フランス革命は、「自由」「平等」などの人権を旗印にし、「ひとりひとりが個人として尊重される」社会を実現すると同時に、「国民国家」を作り出し、「国のために死ぬ」という常識をも生み出したのです。

「命を気軽に処分してはいけない」と思う素朴な感情を否定するべきではないと思いますが、とはいえ、「何よりも命を優先するべき」という意見にも僕は与したくありません。

「国家を守るために死ぬ」が、近代社会の常識となっていて、実際に、今ウクライナで、たくさんの兵士たちが、国を守るために死んでいるからです。

このウクライナ兵士たちや、その家族に対して、「命を粗末にするな」とか「命を大切にしましょう」なんて、僕は口が裂けても言えません。

相手をあまりにも侮辱するからです。この発言は、レイプと同様に、「魂の殺人」と言っていいでしょう。国を守るために戦う兵士に対して「命を大切にしましょう」なんて言うのは、魂の殺人にほかなりません。

命よりも大切なものなんて、国民国家が生まれた瞬間から、国民全員が共有していたはずです。

しかし、今の日本では、こんな当たり前も廃れてしまっているようです。

僕としても、「国民全員が、国を守るために命を捧げるべきだ!」とは思っていません。そういう話ではなくて、命よりも大切なものなんて、少し歴史を振り返ればすぐに見つかるんだから、それを正面から受けとめましょうということです。

「命」を振りかざせば、あらゆることが正当化できるなんて、ちゃんちゃらおかしいと僕は思います。今日の僕は、どうしても、これを言いたかったので、つらつら書いてみました。

それではまた明日!・・・↓

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