見出し画像

どうやら僕は、情緒面(精神面)の発達が必要なようです

【 自己紹介 】

プロフィールページはこちら

このブログでは、2019年7月にうつ病を発症し、それをきっかけに同年12月からブログを始めて、それ以降、600日以上毎日ブログ更新してきた、しがないサラリーマン弁護士である僕が、日々考えていることを綴っています。

法律に関する記事は既にたくさん書いていますので、興味のある方は、こちらにテーマ別で整理していますので、興味のあるテーマを選んでご覧ください。

【 今日のトピック:情緒的な発達 】

今日は、とても悲しい話です。

僕は、これまでずっと他人に興味がありませんでした。

「他人に興味がない」というか、自分と世界を切り離していました。

世界が全て、自分ゴトとして思えないのです。

自分以外の誰かが何していようが、どうでもよかったんです。

実は、さっきまで2歳年下の妹と話していたんですが、途中からカウンセリングみたいになっていました(笑)

僕と妹は、育った環境が似ています(当たり前ですが、兄弟で離れ離れになることもあるので、一応書いときます)。

僕は妹と真剣に話すこともなく、ずっと小馬鹿にすらしていましたが、今日話したおかげで、自分の育った環境や、その環境が自分にどんんな影響を与えているかについて、めちゃくちゃ理解を深めることができました。

何よりも、妹と仲良くなりました。友達が1人増えた感じで嬉しいです。

「世界を切り離した」という話ですが、繰り返しになりますが、僕は、他人に興味がありません。

なんというか、人と話すことは好きなんですよ。ただ、その「好き」が相互的じゃありません。

僕の話を聞いてもらうことが好きなだけで、相手の話を聞くことについて、特に気持ちは高揚しません。

おもしろいことがあれば、手を叩いて笑いますが、だからといって、それはその場しのぎで、笑ったことは秒で忘れています。

相手の話したことも秒で忘れています。これがいちばん、「他人に興味がない」典型的なエピソードだと思います。

あと、今日妹と話していて思ったことがあって、僕、お土産を買わないんです。

どうやら、「家族や友達にお土産を買っていこう」というのは素朴な感情らしいです。

僕がお土産を買うのって、必ず義務的なんです。「お土産買っていかなきゃいけないな」と思って買うこと以外あり得ません。

これも、典型的な「他人に興味がない」エピソードだと今日思いました。

「家族にお土産買っていこうかな」と思わないんですよね。家族ですら、僕とは違う世界の人間だからです。

まだ最終的な答えだとは思っていないのですが、僕が他人に興味を持たなくなった(世界を自分と切り離した)のは、幼い頃の虐待が原体験なのではないかなと思うようになりました。

僕は、うつ病をきっかけに、『嫌われる勇気』に習って、「他人は他人、自分は自分」という、『嫌われる勇気』の中で「課題の分離」と呼ばれている方法に努めてきました。

それが一定の成果を収めたので、僕はさらに他人への興味を失い、自分の興味に集中するようにしてきました。

それはそれで楽しいんですが、その結果、僕はどうやら、情緒的な成長が止まったままになっています。

普通に育っていけば(情緒的な成長が進んでいけば)、この世界に自分以外の人たちが存在するという感覚は、自然と身についていくはずです。

自分以外の誰かと触れ合うことで、喜びや悲しみ、「嫌い」という感情を自然と知っていくわけです。

でも、僕はどうも、そういった、人間関係の中に生じる感情がよくわかりません。

「幸せ」の正体ですら、『嫌われる勇気』に教えてもらう始末です。

で、今日妹と話していて至った結論は、僕が世界を切り離したきっかけが、母親からの虐待だった、ということです。

僕は、家庭がキライでした。実際に叩かれていましたし、それよりも、大きな声で怒鳴られることがイヤでした。

主な虐待親は母親でした。暴力と怒声で、恐怖政治を実施していました。収入の面で、父親も母親に逆らえませんでした。父親のほうが、収入面で劣っていたのです。

当時のことは、叩かれたり怒鳴られたりしたことは覚えていますが、叩かれたり怒鳴ったりされた理由は覚えていません。

当時の自分の気持ちを想像するに、とにかく、叩かれたり怒鳴られたりすることを回避しようとしていたと思います。

その結果、世界に興味を持たなくなるようにしたんだと思います。世界のいろいろに「なんで?」とか「どうして?」とか疑問を持って両親にぶつけるよりも、とにかく、叩かれたり怒鳴られたりされないよう、盲目的に言うことを聞いていたんだと思います。

だって、そうしないと、衣食住が確保できないと本能的に思っていたからです(多分)。

本当は、両親がいなくたって子どもは生きていけます。親なしでもたくましく生きている人たちは現実にたくさんいます。でも、子どもだった僕にその知識を要求するのは無謀です(笑)。

子どもにとっては、生きるためには親の言うことを聞かなきゃいけないと思い、本能的に親にひれ伏します。

親以外に親密な大人がいれば、親に頼らなくてもいいなと思えますが、今の核家族社会で、親以外に、親ほど一緒に入られる(親密な関係を築ける)大人はいません。

ますます時代は、親以外が子どもに関与することが難しくなっていて、僕の場合もそうでした。

だから僕は、生存本能を思う存分発揮して、盲目的に親の言うことに服従していました。

親にもちろん悪気はなかったでしょうが、弱い立場の子どもに対し、子どもの生存本能にかこつけて、暴力と怒声で言うことを聞かせるというのは、目を覆いたくなるほどグロテスクですね、今冷静に思うと(笑)。

こんなこと親からされていたら、世界を自分から切り離そうとするだろうなと思いました(笑)。

こんな家庭で、安心な関係を築くことなんてできません。安心どころか、僕にとって世界は、生き残るために親に服従するものでした。

自分と世界を切り離し、それによって、あらゆる出来事を「他人事」としたほうが、ラクに耐えることができます。

そうやって、僕は、あらゆる出来事を「他人事」にしてきました。

ここまで書いておいてアレですが、まあ、さすがに何でもかんでも、虐待のせいにするのは、都合が良すぎます。

他人に興味が持てず、そのせいで僕は、孤独でさみしい青春時代を過ごしてきましたが、「虐待のせいで他人に興味を持てなくなった」と思ったほうが、孤独を自分のせいにしなくていいので、僕にとっては非常に都合がいいです。

僕は高校卒業と共に実家を離れていたので、自分で努力して親の影響を排除することもできたはずです。しかし、僕はあえてそうせず、親のせいにして生きてきたわけです。そうしたほうがラクなんで。

だから、虐待にすべての根源を求めるべきではないのかなあと思います。

とはいえ、虐待の原体験まで否定するべきではないのかなとも思っていて、そのトラウマ的な原体験とも、少しずつ折り合いをつけながら、遅ればせながら、31歳にして、情緒的に成長しようと思っています。

妹によると、年齢に応じて、情緒的な成長を促す本があるらしいです。いちばん幼いレベルは絵本らしいのですが、絵本の中にもランクがあって、その中でもいちばん最初が、『いないいないばあ』と『はらぺこあおむし』らしいです。

これは、同じシーンを繰り返すことで、「世界は期待したとおりに未来が起きるよ」ということ教えてくれるらしいです。

今のページから予測したとおりに、次のページで出来事が起きる。

例えば、『いないいないばあ』は、ずっと「いないいないばあ」が続くわけですが、これは、「いないいないばあ」が起きたのならまた「いないいないばあ」が起きるだろうという子どもの期待に応えるように構成されているらしいです。これによって、子どもは世界に対して安心を感じるようになるようです。

僕の原体験は恐怖政治ですから、世界に対して安心どころか不安を抱いています。

だから、僕はどうやら、『いないいないばあ』から始めなきゃいけまないようです(笑)。

これから、毎週図書館に行って、絵本を読み漁ろうと思っています(真剣)

今日はこの辺にします。

それではまた明日!・・・↓

*:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:**:;;;:*:;;;:*

TwitterFacebookでも情報発信しています。フォローしてくださると嬉しいです。

昨日のブログはこちら↓

僕に興味を持っていただいた方はこちらからいろいろとご覧ください。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

※内容に共感いただけたら、記事のシェアをお願いします。

毎日記事を更新しています。フォローの上、毎日ご覧くださると嬉しいです。

サポートしてくださると,めちゃくちゃ嬉しいです!いただいたサポートは,書籍購入費などの活動資金に使わせていただきます!