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読者感想文:アンダーグラウンド

村上春樹さんによる地下鉄サリン事件の被害者達のインタビューを集めた本「アンダーグラウンド」を読んだ。

以前読んだ村上さんの「職業としての小説家」の中にこの本のことが書かれていて、たまたま見つけることができたので、読んでみようと思ったのだ。

この事件の当日、いつもなら、私の父も事件のあった電車に乗る予定だった。

しかし、悪運が強かったのか、たまたまその日はその電車に乗らなかったのだ。

もしかしたら、自分も被害者の家族だったかもしれない。

そういう意味でも、関係ないとは思えず、
また、当時小学生で、事件について朧気にしか覚えていなかったあの事件について知りたいと思ったのだ。

被害者の方のコメントで多かったのは、
オウム真理教の人達の考えることは常識を逸脱しており、常人に理解できるものではない。

また、普通の人に考えられるものではなく、良し悪しを論じたところで意味はない、こちら世界の道理が通用するものではなく、訳の分からないもの、理解できないものであり、相手に常識は通用しないのだから、

法律でしっかりと裁いてほしいし、責任もとってほしい、自分達も何が何だか分からない間に巻き込まれた、と言った類いのものにだった。

もちろん、オウム真理教のやったことは許されることではないし、心や体に被害を被った方々が、きっと今も苦しんでいる。

しかし、被害者の中には、オウム真理教にハマってしまう人の気持ちの分からなくはない、という人もいた。

それだけ社会は病んでいて、皆心も体も疲れていた。今もかもしれない。

そういう人の心の闇にオウム真理教は漬け込んだのかもしれない。

しかし、村上さんは、最後の章でオウムについて、単純に拒絶するのではなく、人間の深い部分について考察された解釈をなさっているので、ご興味ある方は、是非読んでみてもらいたい。(決してオウムのやったことは肯定なさってはいません。)

被害者の中には、もちろん犯人を赦すことはできない、という人と(当然だ)、別に恨んだり怒ったりはしていないという人がいた。

諦めというか、そのことを、ずっと心や頭に置いておくことや覚えていること自体が、辛く苦しく、そして望まないことだからだろうと印象を受けた。

また、彼らを理解することができないから、憎しみが湧いてこない、という意見も複数あった。

ただ、ほとんどの人が、もうあの事件については、何も見聞きしたくないし、触れたくない、関わりたくないというものだった。

忘れることなんできないだろうけれど、忘れてしまいたいという人が多かった。

マスコミは信用できないという人も多かった。

ああいう大きな事件に巻き込まれたら、そういう気持ちになるのだろう。
自分達は、聴衆を喜ばせる見せ物じゃない、そういう声もあったし、一部の混乱だけ切り取ってメディアに流すことに違和感を感じている人もいた。

また、本当に伝えたかったことはカットされてしまったという話もあった。

上からの圧力がかかるからと。

彼らは、見せたいものだけを見せる、と。

当時、地下鉄で働いていた方も複数人殉職している。
重症化したものの生き残った方もいた。

働いていた方々のインタビューは、皆自分の仕事に誇りと責任を持っており、胸が痛くなった。

お客様が快適に利用者できるように、最善を尽くしてくださり、家族には、毎朝、生きて帰れないかもしれない、と告げてから家を出る方もおられた。

このような事件にいつ巻き込まれるともしれないからだ。

よく駅のホームでも、車内でも、罵り合いや喧嘩が勃発したり、(私も目の前で、おじさんが態度悪く座っていた少年の頬をいきなりひっぱたくのを見て、恐怖を感じたことがある)遅延した電車の文句を駅員さんに怒鳴り散らしている人を見かけることがある。

何気なく毎日乗っている電車だけれど、命懸けの職員の方あっての運行なのだ、と改めて思った。

また医療関係者の方々の迅速な対応や、臨機応変な対応にも驚いた。

助かる命を1人でも増やすための、的確な優先順位。

また、一般の方々の中にも動ける人が、
自分もサリンの被害に合いながらも、
懸命に救助にあたられたようで、

救急車が間に合わなかったため、
一般に走っている自動車に声をかけて、
運んでもらったり、そういうことも、
被害を食い止める一因となったようだった。

残念なことに亡くなってしまった方もおられたが、5,000人以上もの被害者の内、死者が11名であったことは、奇跡だと書かれていた。

いつもの日常が、突然悪夢に変わるということ。

いつも使っている路線が突然、人身事故やその他の理由で運行中止になると、それだけでもものすごい混乱が起きる。

特にラッシュ時には。

駅から溢れ出して行列する人々。
いつ動くとも分からない電車。

東日本大震災の時、帰宅する術がなくて会社に泊まったことを思い出した。

直接被害に合われた方を思えば、私なんて全然不満を言えた立場上ではないが、それなりに混乱し、動揺した。

この事件の被害者の方々も、程度の差はもちろんあると思うが、信じていた日常が突然裏切られたのだと思う。

訳も分からぬ間に巻き込まれ日常一変する恐怖と不安。

被害者の方々は、ほとんどが最初、自分が巻き込まれたことに気がつかなかったようだ。

なんか少し異臭がするな、やけに咳が出るな、鼻水が出るな、胸が苦しいな、視界が暗いな、寒いな‥等々。

でもほとんどの人が、今日は自分の体調悪いのかな、コートを忘れせいで寒いのかな、寝不足あるいは二日酔いのせいかな、等と外的要因ではなく、自分に原因があると思っていた。

それが、電車が止まり、ホームに人が倒れ、次第に沢山の人が病院へ運ばれて、ニュースが流れ、
自分の体調が悪化し倒れ込んで初めて、
ああこれは事件に巻き込まれたのだ、
と気がついたようだった。

人は、未知のものや予測値不能なものに遭遇した時、すぐに判断できないのだ思う。

後になって原因が解明され、ことの重大さを
知る。

知らず知らずのうちに巻き込まれる恐怖。

それにしても、皆、そのような異常な状況下にあっても、「会社に行かなければ」という強い気持ちを多く人が持っていたことに驚いた。

実際、私も通勤中に電車のトラブルが起きた時、
真っ先に考えるのは、会社に遅刻してしまうな、ということなのだが、

日本人のあまり会社への責任感の強さに、
客観的に沢山の人の供述を読むと、
少し異常性のようなものも感じた。

それだけ、日本は労働への強い強迫観念のある国なのかもしれない。

この本を読んでもう一つ、印象に残ったのは、
被害者の方々の後遺症についてで、
身体的なものも、精神的ものも含め、
他人の目には分りずらく、その苦しみを周りに理解してもらえない苦しみだった。

「中毒症状が治ったんだからなんともないだろう」と、仕事の量を減らしてもらえなかったり、
「それはあなたが弱いからだ」と言われたり、

そういう中で、事件による深い心の傷が癒えないまま、会社を辞めてしまった人も多くいた。

多くの人が1年たってもPTSDの症状に悩まれており、いまだによく眠れなかったり、悪夢を見たり、身体的に疲れやすくなったり、物覚えが悪くなったり、視力が落ちたり、集中力が落ちたりしていた。
(少しコロナの後遺症に似ていると思った‥)

被害者の方々は「孤独」であったと、本書に出てくる精神科医の先生は仰っていた。

そんな中でも、憎しみは何も生み出さないと、
明るく前を向こうとする人や、

一時、植物状態にまでなってしまい、なんとか少し動けるようにはなったが、鼻のチューブから食事をし、車椅子での移動を余儀なくなれている方が、
それでも、何とか前を見て生きていこうと懸命な様子も記載されていて、胸が熱くなった。

人間の強さや、善良さについても、影が光をつよくするように、この本を読んで感じたことの1つだった。

当時の人々の生の声を何十人分も読んでいると、
「ニュース」や「メディア」が伝えているものがほんの一部であるということを改めて感じた。
(もちろん、この本を完読したからと言って、全てを理解したわけではないことは、分かっている。)

当たり前だけど、電車を利用している多くの人、
1人1人に人生があって、あのような無差別に大勢を対象とした事件があっても、1人1人が苦しんでいる。

1人1人に人生の重さ、命の重さがある、ということを改めて思った。

今も各地で起こっている戦争にも同じことが言えるのではないか、

また、災害も同じなのではないか、
と思った。

画像はお借りしました。


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