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わたしはバスに乗って、職場に向う。
仕事は嫌いだけど、朝のバスは好きだ。
始発駅の次だからかもしれない、わたしが乗るバスはいつも空いていた。
後部座席で、あの人は本を読んでいる。
日焼けした褐色の肌、丸刈りの頭髪、黒縁の眼鏡、ページをめくる指は固く動かないようだ。
紺色の擦れた作業着の胸元に、社名の刺繍が施されている。
手にしている文庫本は古びて、肌と似た色になっている。
彼はそれを、毎日読んでいる。
彼の仕草は、一見異様に見えるだろう。
分厚い黒縁眼鏡の奥の目の形状は、明らかに左右非対称、右目はケロイドの痕に埋まり、ほとんど潰れているように見えた。ぎょろぎょろとした左目は、右の視力を補っているのだろうか。
本を鼻先まで近づけ、左目を凝らすように文字を追って、次のページでは腕を一杯に伸ばし、小さな右目をつぶる。
時に、本に頬ずりするみたいに読み、動かない太い指をページにあてがい、めくる。
屈折率の高い眼鏡を時折ずらして、本に目を近づけたり、遠ざけたり、一生懸命読んでいるのだ。その姿は愛おしいほどに、熱を持って読書をしている。

わたしは滅多に元気にならない。
インタビューなどで、「元気をもらいました」とかぬかすヤツは信用ならない。
わたしは不健康なままでいいし、自分の事を嫌いなままでいい。
元気にならない自分を気に入ってさえいるわけだ。
最早、誰かの何かで元気になってたまるか、とさえ感じているのだ。

彼を毎日見ていて、気付いた事がある。
わたしは他人からの影響に、恐れを感じている。
それで胸が震えたり、感動したりが恐ろしい。
人から注がれるエネルギーの巨大さを感じてしまえば、わたしが変わってしまいそうだ。
それは、今までの自分と対峙する恐怖。
そんな感情を抱いて、一体どうしろというのだろう。

優しい朝日に包まれた、彼を見ている。
潰れた目で、動かない指で、本と格闘している薄汚れた作業着の彼を、今日も見ている。
その様は、わたしを圧倒する。
毎日に流されるわたしを責めている。
潰れた目で、ボロボロの本で、擦れた作業着で、節くれだった指で、わたしに問いかけないで欲しい。
おまえには情熱があるか、 と。
イヤな仕事を嫌々しているわたしに、おまえにも情熱があるはずだと、思い出させないで欲しい。

彼の熱の欠片が、心に入ってくる。
朝日と、潰れた目と指とボロボロの本と、乗客の少ないバス。

わたしは彼のせいで生き方についてを、毎日迷っている。
彼の情熱が、わたしにも貯まっているのだ。
わたしが好きなだと思うことを出来そうな気もする。
無理かもしれないけど。






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