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見事なビアさばき

珀色のビールを注ぎ、真っ白な泡を重ねて、溢れ出た液体をスプーンで切る。
真綿のようなアワが琥珀に重なる。
開業60年目にして閉店する、とあるビアホールでの光景だ。
土曜日、いつの気にもなっていたけど入ることがなかったその店に、私は行った。

木枠のドアはズレているし、ガラスケースは曇っているし、白だったであろう壁はもはや灰色に近くなっているし、別の意味でインスタ映えしそうな、昭和レトロもレトロ。
興味はあったがなんとなく横目で見て通り過ぎ、来店に至ることはなかった。
数日前から、日焼けした薄茶色のサンプル横の、木枠のドアの前に「60年間、本当にありがとうございました」という幟がたつようになった。
ズレた木枠ドアに寄りかかり立つ、「60年間、本当にありがとうございました」を見たとき、寂しくなって、入らずにはいられなくなったのだ。
まあ、ミーハーなんだな。
で、入ってみると満席。
「30分以上お待ちいただきます」
ヨーデル歌いの女の子が着ているような、どことなく懐かしい制服を着た、茶髪の女の子が私に声をかけてくれた。
いいですよ待ちます、と、ご機嫌なアコーディオン組曲みたいBGMを聞きながら、ヤニの染み付いた店内を見回す。
やたらと晴れた空に雄大な山脈の写真。ドイツなんたら山脈か。その色褪せ具合が、店の年月をここでも余すことなく語っている。
この満席は、私のようなミーハーたちなのかな。
常連なのかもしれないけど、なんとなく浮き足だった印象をうける。だから、わたしと同類だろう。
この客たちがずっと足しげく、通ってくれていたら、閉店の憂き目にも合わなかったのではないかな、わたしだって通えば良かったじゃん、と自戒。
30分より早く席に通されて、とりあえずビールよりももっと真剣なビールで、ずっと気になっていた、60年間本当にありがとうを味うことにする。
そこで冒頭のシーンだ。
ヨーデル風の女子が驚くほどテキパキとビールを注ぎ、グラスを洗い、次々とオーダーを通していく。
この店には計3名のヨーデル風女子がいたのだが、その全員が本当に俊敏に動いていたのだ。
ジョッキを洗う係の女の子はカウンターの私に背を向けているのだが、客席の音に耳をすませ、扉が音がするとすかさずホールへと出ていく。そして、別の女の子はホールへと出て行ったその女の子のやり残した仕事をすぐさま片付け、料理を運んでゆく。
無駄のない動き、研ぎ澄まされたプロ意識。
カウンターで私はビールを飲む。
彼女が注いでくれた素晴らしく美しいビールを飲む。
唇をくすぐる真綿の泡、喉の奥を刺激する炭酸、こみ上げる濃厚なホップ刺激。
ああ、全てが心地よい。
ソーセージの盛り合わせ。
適度な酸味のザワークラフトの、山盛りも嬉しい。
細長いソーセージ、辛そうなソーセージ、極太のソーセージ。
それぞれの名前は分からないけれど、テリテリと私をの食欲をつつく。
極太のソーセージにフォークを刺し、口の中に入れる。
コマーシャルでやっているような軽薄なパリっと感などない。
私の歯の力を精一杯受け止め、押し返し、そしてこらえきれず、肉汁を放つ。
火傷しそうなの熱い肉汁。
これはソーセージではない。腸詰めだ。豚の腸の中に、ハーブと共に安いひき肉が詰め込まれた、下品で素晴らしく美味い腸詰め。
ふしだらな脂がわたしのの口中に溢れ出る。 
過剰な油脂と、ザワークラフト。
その両者を口に含み、喉奥に入るか入らないか位の間合いで、私はビールを飲む。
美味い、至福。
私は自分のミーハーを呪う。
今まで通えよこの店にわたしよ!

と、後ろの女のコたちのオーダー。
「デザートみたいなもの、ありますか?」
「そういったものは一切ありません」
それでいい。

私はほんのつかの間、60年間を味わった。
「60年間、本当にありがとうございました」を、これから、できるだけは味わいつくそう。
あと何回通えるかな。
楽しみができて嬉しい。


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