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いつでも誰とでも

妄想の一つです。
わたしが誰彼構わず寝ていたということ。
だってそれはとても簡単だったから。

飲み屋のカウンター。
スマホと一緒に酒を飲んでいるサラリーマン。彼の視野に入るところに座って、わたしは時折彼のことを見る。
手元の画面から、色の塊が消えたり現れたりして、何も考えないひと時に酔い始めている。
背中を丸め、肘をついて、ジョッキを飲み干す。小指で画面を操作する。
また色を消えた。
彼はほんの少しだけ、わたしに視線を送る。ほんの数秒だけ。
「俺が見ているなんて、思ってくれるなよ」と、無関心をアピールするための数秒を、わたしに送る。
わたしは前髪をかき上げながら、見る。わたしは関心を彼に送る。
スマホを伏せる。そして、ハイボールを頼んだ。
「わたしも、ハイボールください」
背中を伸ばしながら、わたしのことを確認している。首に手をまわし、肩が凝っている素振りをして、わたしを気に掛ける。
他人同士が知り合う前の淡い緊張。
ほとんど同時に、ハイボールが置かれる。
一瞬、目が合う。わたしはクスっと目で笑ってみせる。
彼がぎこちなく、グラスを掲げる。わたしもそれに合わせる。
そして同じタイミングで、グラスに口をつける。
わたしは小さな声で「お疲れ様です」と言う。
わたしに背を向け、首を大げさに撫でながら、スマホを手に取る。画面から一切の色が消えた。

わたしはフードメニューを手に取り、何をオーダーするか考える。
メニューを彩るチーズサラダは1人前でもボリュームがある。
これにしよう。
わたしはチーズサラダを注文する。彼はハイボールを注文する。
彼はわたしを見ている。
「お仕事帰りですか?」
「え、ああ、そうです」
「お近くなんですか?」
「あ、向こうの交差点突き当りのビルの隣の隣の会社です」
彼は長い腕を伸ばして、自分の職場を指さし、教えてくれた。
「近いですね」
「えっと、近くなんですか? 仕事帰りとか、ですか?」
寄れたYシャツ、くたびれたスーツ、日に焼けた肌。ネクタイの根元が緩んでいる。
「今日は用事があって来たんです。久しぶりにこの辺りに来たから、寄っていこうかなと思って」
「この店よく来るんですか?」
「前は来てたけど、引っ越しちゃったの」
チーズサラダが運ばれてきた。カラフルで、量が多い。
ゴーダチーズ、チェダーチーズ、モツァレラチーズ、それそれがサイコロのように四角にカットされ、ベリーリーフ、ブロッコリー、ゆで卵にバランスよく和えられている。白いソースはこの店オリジナルのビネガークリームソースだ。
「ひとりじゃ食べきれないから……もしよかったら、いかがですか?」
「いいんですか?」
「ええ、もちろん」
彼はハイボールをグイとのんで、
スマホとタバコを手に取り、コートとバッグを寄せて、わたしの隣に座った。
「いや、なんか、すみません」
「いえ、こちらこそすみません。よかったらどうぞ」
店員が、とりわけ用の小皿と箸を持ってきてくれた。
元の場所から、空いた皿とグラスが手際よく回収されてゆく。
彼はまた、ハイボールを頼む。
「いつもハイボールなんですか?」
「だいたいそうですね。無駄な抵抗だとわかってるんだけど、これ以上ね」
彼は腹の肉をつまんで見せた。
「気にしなくていいのに」
いやあ、と照れている。
「わたしも同じのください」
わたしは彼に、チーズサラダを取り分ける。
二人の前に、同じ飲み物が置かれる。
わたしたちは、また、乾杯をする。
そして、素性をさぐらないまま、うわべの、たまたま飲み屋で知り合ったもの同士の会話を続ける。
他人であることのマナーを守りつつ、彼はわたしと寝たいと思っている。
わたしも彼が欲しいと思う。
そう、この店に入って、最初に見た時から、この男が欲しかった。

彼はたばこのにおいがした。
そして滴る汗をかいた。
カビ臭い部屋だった。わたしたちにはそれで充分だった。
わたしは彼を知らない。彼もわたしを知らない。
でも言葉を使わない会話をした。ほんの一瞬だけ、彼はわたしのものになった。
それで充分だ。

こんな夜がいくつもあった。
誰でもいいし、いつでも良かった。
ほとんど覚えていないけど、ふっと香ることがある。
男たちが持つ、独特の臭気。刹那的な欲望の匂い。

これは妄想の、ほんの一つ。

今日はどこに飲みに行こうか。














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