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跳ねろ 犬捜査線(第3話)

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モモ之心

【犬馬之心(けんばのこころ)】
主君への忠誠心のこと。犬や馬が飼い主に示す忠誠心ということから。自身の忠誠心を謙遜していう言葉。

「四字熟語辞典オンライン」より

あらためて嗅ぐまでもないわ。
前回と同じにおい。

三上さんがワタシにそっと近づけた、おばあさんの使っている枕カバー。その向こうに見えるのは、前回も、前々回も、すまなそうな顔で見つめている女性、山本幸惠さんの娘さん。
「母と二人きりなので。どうしてもずっと見ているわけにはいかなくて」
申し訳ありません、すみません、と胸元を押さえながら何度も鼻を啜って頭を下げる。
他の家族はいないのかしら。部屋の中は静まり返っていて、廊下の白い蛍光灯がたまにパチパチ光る音までもが響いている。

うちの玄関とは大違いだ。
大理石の玄関タイルに反射するシーリングライト。その下で飼い主のキョウコさんはマロンを抱きながら、夫さんと一緒に今日の私を出動を見送った。
「すぐ逃げ出すならベッドに縛り付けておけばいいのにねえ。モモちゃん、がんばって稼いできてね」と。

枕カバーはいつものニオイで、石鹸の香りがした。
おばあさんのニオイは消えないけれど、嗅ぐと毎回、僅かに石鹸の香りがする。清潔にしているんだ。玄関も、おばあさんの履物も、普段は誰にも触られない、おばあさんしか使わない枕カバーでさえも。

ふと菊の花のニオイが漂って気になった。
そうだ。以前この家に来た時、玄関はコスモスのニオイがした。今、靴箱の上に飾られた花瓶を見上げると、そこには水だけが残されている。花はない。三和土に菊のニオイの染みた水の跡が数滴、外に続いている。
誰かが、花だけを持ち去ったのかしら。

「よし。モモ、行くよ」
出動だ。最短記録を更新してやるわよ。
玄関を出て、地面に残されたおばあさんのニオイを迷わず辿った。でも……。
前回は、娘さんが朝起きてすぐ気づいたから近所で見つかった。今回は、ずいぶん前に家を出たような。娘さんの留守の間に。どこまで歩いていったのかしら。長い戦いになるのではないかしら。

ワタシは少し不安になって、三上さんの顔を見上げる。
三上さんはいつもの引き締まった顔だ。

弱音を吐いたらダメよ。
ワタシは三上さんの喜ぶ顔を見るんだから。

三上さんとの出会いは、1歳の誕生日より前だった。
産まれて3か月目。かわいい、かわいいとがむしゃらに撫でられてキョウコさんに飼われ始めたワタシは、撫でてもらうより先にどこでオシッコしたらいいか教えて欲しかった。
どこでしても「モモちゃんダメでちゅよ」と笑顔で言うから、その頃はどうしたらいいのか全く理解できなかった。
逆に、キョウコさんの夫さんには怒鳴られてばかりだった。
トイレでオシッコをしても、おもちゃを齧っても、喉が渇いても。大声で怒鳴られて怖かったことしか覚えていない。でも「怒ってるわけではない」というのは今になったら分かる。そういう喋り方をする人間だったんだと。

キョウコさんはある日、「困ったわね。いつまでたっても全然言うこと聞かない犬ね」と言ってワタシを車に乗せた。
これは、ペットショップの仲間から聞いていた「噂」の現場に連れていかれるに違いないとビクビクしたが、車に乗ってしばらくしたら怒りが込み上げてきた。噂の現場に着いたらケージを飛び出して逃げてやる。そう心に決めていたのに、着いたとたんに目に飛び込んできたのは、優しい瞳を持った人間と、芝生を自由に駆け回るラブだった。ラブは私に気が付くと近寄ってきて、ケージの奥でわずかに震えるワタシに(大丈夫だよ、出ておいで)と、ひと吠えかけてくれた。

そうしてワタシは無事、三上さんと出会えたのだった。

毎日のようにその訓練所からお迎えの車が来るようになり、ワタシは飛び跳ねて玄関まで出迎えた。三上さんに丁寧に生きる術を教えてもらえて、三上さんの喜ぶ顔が見られて、毎日楽しかったし、ぐっすり眠れたし、徐々にキョウコさんの気持ちにも寄り添えるようになっていった。

「モモちゃんは好奇心が旺盛なのでおうちでの躾は大変だったかもしれません。でも、とても優秀な子なので、よかったら嘱託警察犬のトレーニングコースに進んではいかがでしょうか」
ワタシの特別な才能を見出してくれたのも、三上さんだった。

「捜査って私が連れて歩くの? 嫌だわ」
最初はしかめっ面で断っていたキョウコさんも、もし嘱託警察犬に任命された場合は責任をもって指導手の三上さんが捜査協力をすると分かると、「それならちょっと面白そうね。この子が警察犬なんて話題になりそう」と喜んでワタシを差し出した。
「あくまで飼い主は私ですからね!」と付け加えて。

そして、訓練の日々。
基礎訓練を軽くこなしたワタシは、泊まり込みで「足跡追及犬」としての訓練を積むことになり、さらに三上さんとの信頼関係も深まった。失敗は多かったけど、全く辛くはなかった。

休憩時間も三上さんは「女子トーク」と言ってワタシによく話しかけてくれた。

「私の祖父は警察官だったのよ。鑑識課で警察犬と一緒に捜査するの」
(だから三上さんもこの仕事を?)
三上さんは、ワタシを見てニッコリ笑った。
「祖父には一度しか会ったことないけど」
(もう死んじゃった?)
「父が中学生くらいのころに離婚して家を出てしまって。祖母の方が資産家で、結婚して祖母の家に住んでいたからね。浮気して追い出された、なんて言われていたみたい。警察官もクビになったとかいう噂。ふふ」
三上さんは少しおかしそうに笑った。
(浮気してクビ?)
「何かの事件のあと心を病んでしまったんだろうって父は言っていたけど。でも中学生の息子を置いて出るなんて酷い話よね。祖母が追い出したって話になっているのは、祖母のプライドかしら」

三上さんとは、不思議と言葉が通じるようだった。聞きたいことを何でも返事して話してくれる。
(お父さんは、お祖父さんを恨んでいるかしら)
「次男坊の父は優しかった祖父が大好きだったから、自分も出て行くって、すぐに会いに行ったんですって。でも祖父がいるはずの家には、子持ちの女性が生活していて。あとで、浮気でもなければ、一緒に生活しているわけでもないって説明されたらしいけど……。よく分からないわね。どのみち、自分は親として失格だから、もう忘れてほしいって。泣いて謝られてどうしようもできなかったって」

(何があったのかしら)

「最近の父は、酔うとすぐに『親父は立派な警察官だった』って言って泣くのよ。私の制服姿の写真とか見ると思い出すみたい。ふふ」
(三上さんの姿をお祖父さんの若い頃と重ね合わせてしまうのね)
「優秀な相棒とたくさんの手柄を上げていたんですって。昔、そういった警察犬のドラマがあったみたいで、ソックリだって父は自慢してたわ。だけど、相棒が引退してしまってから上手く行かなくなったとか」

(仕方ないわ。ワタシたち犬のほうが、先に寿命を迎える)

「私が小さなころ、一度父に連れられて祖父に会ったことがあるの。だけどその時はもう警察官だった面影なんてなかった。あまり覚えてないけど、ちょっと情けない風貌だった覚えがあるわ。今もこの町のどこかに住んでいる。祖母が亡くなったから、そろそろ会いに行っても平気かな。元気で暮らしてるのか、心配だわ」
三上さんは、遠くで訓練しているラブと訓練士の男性をどこか懐かしそうに見つめた。

「おじいちゃん……」

(三上さんの立派な姿を見てもらいたいわね)
ワタシが言うと、三上さんはワタシを見つめてにっこり頷いた。

おばあさんの足取りを追っていると、気づけば辺りは暗くなっていた。この程度の暗闇は別に嫌いじゃない。今の家で夜眠る時も、どこかで人間の音がしたり、窓から月明かりが差し込んできたり。怖さは全くない。

ワタシを産んでくれたママとすぐに引き離されてペットショップで飼い主が現れるのを待っていた頃は、逆に眩しさに耐える毎日だった。
なのに、夜。ショップが閉店時間を過ぎると本当に朝まで誰ひとりといなくなる。お客さんにジロジロみられる部屋ではなく、奥のケージに移されて天井の電気が消されると、本当の暗闇の中で、他のみんなの泣き言や文句を聞きながら、眠れない夜をやりすごした。そんな日々だった。

いけない。気が散ってる。

改めて空気中のニオイを嗅ぐために立ち止まった。
おばあさんの足跡は追えている。でも、他に気になるニオイが、ある。

足を止めたワタシの反応を、三上さんが待っている。
ここじゃない。ここに、あのおばあさんがいるわけではない。でも、何か……気になる。

ワタシは三上さんを見上げた。
見つけました、の合図でもない。もう分かりません、の合図でもない。
「キュゥン……」
「モモ。何か気になってるのね。いいよ。好きに探してごらん。気になるにおいを辿っていいよ」
(ありがとう三上さん。少しだけ)
ワタシは、空気上にある気になるニオイを嗅ぎ始めた。

冷ややっこのニオイ。ほうれん草のおひたしのニオイ。刺身醤油のニオイ。
あの大福だったら、ここでお腹空いたなぁ、なんて思うんだろうな。

そんなことが一瞬頭をよぎって、自分でも驚く。
大事な捜査中に、ワタシったら何考えてるのかしら。だめだめ。

洗面所のニオイ。汚れた台所のニオイ。シュウメイギクのニオイ。

ワタシはまた、三上さんを見上げた。
三上さんの……ニオイ?
三上さんが不思議そうな顔でワタシを見た。
ワタシも不思議な気持ちで三上さんを見た。

三上さんのニオイは三上さんから流れ出ている。でもそれとは違う。
三上さんの「ような」ニオイが、どこかから漂って空気中をさまよっている。ワタシはそのニオイが気になっているんだと、間違いなく気付いた。そのニオイはどこから……。

(こっちだわ)

ワタシが自信を持って歩き出すと、三上さんがいつものようについてくる。
(信じてくれてありがとう)

少し歩くとそこは外灯の無い、さっき以上に暗い道だった。
空気中を漂う「三上さんのようなニオイ」を追うと、それは不思議なことに「おばあさんの足跡のにおい」と同じ道を辿ることにもなっていた。
ラッキーと言っていいのかもしれない。でも、二つのにおいを同時に追うのはとても集中力が必要で、かなり疲れる作業だ。

そろそろ「三上さんのようなにおい」は諦めようかと思ったところで、ワタシより先に三上さんが立ち止まった。

(どうしたの。こっちよ)

ワタシが三上さんを見上げると、三上さんは前方を見つめている。
リードから僅かに緊張が伝わる。訓練ではまずないことだった。行方不明者を見つけた時の緊張感に似ている。

あれ? ワタシより先に見つけちゃったのかしら。

三上さんはゆっくり前に進んだ。
歩調を合わせて進むと、その暗闇の先に誰かが立っている。あれは……

(三上さんのようなニオイの「もと」だ)

暗くてよく見えない。でもあの人が、三上さんのようなニオイのもとだ。間違いない。三上さんの、いい匂いとは全然違う。これは、ワタシの嗅上皮が感じた臭気ではなく、第六感のようなものかもしれない。見えてはいけない何かが見えてしまった時の。そんなニオイ。今までにも、そんなことが何度かあった。
体中から弱く発せられるそのニオイの人間をじっと見つめた。

「こんにちは」
三上さんが、その相手に向かって小さな声を発した。
「私、行方不明者の捜索にあたっています、警察犬訓練センターの三上と……あ、三上沙綾と言います。このあたりで高齢の女性を見かけなかったでしょうか」
ワタシが何の合図もしていないのに、捜査中にこんな風に誰かに話しかけるなんて珍しい。この人が何か怪しいとでも言うのだろうか。
「みかみ、さあや……」
少し離れたところに立った男が、しわがれた声で三上さんの名前を繰り返す。

「さあや。沙綾、なのか」

男が一歩近づいてきた。ワタシは少し警戒する。
ところが三上さんも男に一歩近づく。三上さんは、この男が立っている家の表札を確認しようとさらに前に足を進めた。そして表札を見て言った。
「三上……さん」
「沙綾。やあ、夢みたいだ。幸太郎の、娘だな」

え。知り合いなの。

「もしかして、お祖父ちゃん……ですか」
えっ! おじいちゃん? 昔警察官だったって話をしていた、あのお祖父ちゃんなの?
お祖父ちゃんと呼ばれた男は髭だらけの顔でにっこり微笑んだ。顔がしわしわだ。白いシャツと、ヨレヨレのズホンにサンダル。お店のビニール袋を掲げてる。買い物帰りみたいだけど、その恰好で?
今まで何人もの警察官と会ってきたけど、とてもそうだった人とは思えない。

「やっぱり。なんとなく面影が……。やだ。ここに住んでいたなら、今までにも会ってたかもしれないわ」

お祖父ちゃんは、三上さんの服装やワタシをジロジロ見て、でも優しい声で言った。
「あそこの、民間の警察犬訓練センターに勤めてるんだってな。まさか、その犬が相棒か」
ワタシが嘱託とはいえ警察犬だと知るとびっくりする人の対応には慣れている。私はスッと三上さんの隣にお座りした。
「賢そうだな。いい目をしている」
褒められた。ひと目でそんなこと言われるなんて初めてだ。てへ。
無自覚にしっぽが少し振れてしまった。
「私、希望していた警察官にはなれなかったけど。今はこの仕事に誇りを持って働いているわ」
「幸太郎から、沙綾の話もたびたび聞いてたよ」
「お父さんと会ってたの?」
「どうしても必要な時だけな。おれは、家族に顔向けできるような人間じゃない」
お祖父ちゃんの皺だらけの笑顔は、一瞬にして寂しそうな泣き顔に変わった。
「人に誇れない人間だ」
「やだ。なに言ってるのよ……」

三上さんのようなニオイは、このお祖父ちゃんから発せられた何かだったことが分かった。
でも待って。
探さなきゃいけないおばあさんの足跡のニオイも、この地面や空気中に漂っている。間違いなく、この近くにいる。

そして何か、もっといやな何かのニオイも微かにする。

ワタシはお祖父ちゃんの家を眺めた。だいぶ古い。よく見ると瓦屋根が落ちていたり、壁がはがれかけている。
「こんな時になんだけど……もうお祖母ちゃんは亡くなったわ。よかったらうちに遊びに来てよ。なんなら、部屋が空いてるんだから一緒に――」
三上さんのお祖父ちゃんは大きく頭を振った。
「俺はここを離れられない。生きている限り」
「どうして」
「俺がここを出ていったら、この住宅は取り壊される」
聞こえないくらいの声で囁いた。
「そうでしょうね。もう、倒壊寸前よ。いくら平屋でも心配だわ」
「まだだ」
まだ?

ワタシは三上さんが悔しそうに溜息をつくのを見逃さなかった。少しだけ強く握った拳も。三上さんは、この状況をなんとかしたいんだ。お祖父ちゃんが頑なにこの家に拘るなにかを。状況を変えたいに違いない。

なら、ワタシが。

ワタシが状況を変えられることは少し前から分かっていた。ただ、それが良いほうに変わるのか、悪いほうに変わるのか分からなくて、もう少し二人の話を聞いておこうと思っていた。でも決心がついた。

ワタシは、三上さんの顔を見上げ、そして歩き出す。
「モモ?」
ワタシは、お祖父さんの家のブロック塀の外側に沿って歩き、庭が見える位置にまわった。鼻を数回、スンスンして最終的なニオイを確認し、その場で伏せをした。

これが合図。
(ここに、居ます)
「ここに? 山本さんが?」

三上さんは、低めのブロック塀を上から覗き込み、真っ暗な庭の中に懐中電灯の明かりをあてる。三上さんのお祖父さんが心配そうに眺めているのが、その立ち姿から分かる。
庭の中は、伸びきった植木や雑草で鬱蒼としていて人が隠れているのかきちんと確認できないようだった。
「お庭の中に入らせてもらってもいい?」
三上さんがお祖父ちゃんに尋ねた。

「沙綾」

お祖父ちゃんは、またゆっくりと皺くちゃな顔で笑った。
「本当に立派になったな。ずいぶんと優秀な警察犬を育てた」

「ありがとう。お邪魔します」
少し噛み合わない会話をしてワタシを連れて庭に入るとすぐ、三上さんは、その片隅に人間が座り込んでうずくまっていたのを発見した。

「山本さん! 山本幸惠さんですね」

女性はゆっくり振り返る。うとうと眠っていたのかもしれない。朦朧とした顔つきで、ゆっくり頷いた。

「山本さんだと?」
玄関先に立っていたお祖父ちゃんが、驚いた風な声をあげて庭に入ってきた。庭に人がいることを知らなかったみたいだ。
三上さんは、無事発見したという連絡を入れようと電話を取り出した。
小走りで近づいてきたお祖父ちゃんを見て、突如おばあさんが目を見開いて叫び出した。
「いやーーーー!」
驚いた三上さんは電話を耳から離し、屈んで山本さんに優しく声を掛ける。
「どうしました。大丈夫ですよ。帰りますからね」
「いや! いやっ、やめてー」
錯乱して暴れ出すおばあさんを必死で宥めようとするけど、おばあさんの力は意外と強い。三上さんが、どんと肩を押されて尻もちをつくと、お祖父ちゃんが、膝をついておばあさんを力強く抱きしめた。

「大丈夫だ! 何もない。もう、何も起こらない。無事だ。君も、娘さんも、みんな無事だ」

さっきはお祖父ちゃんの顔を見て怖がったのに、今度はお祖父ちゃんに強く抱き留められて、おばあさんは急に抵抗をやめた。
見開いていた目が徐々に穏やかになり、強く握っていた拳をひろげ、だらんと両腕が落ちた。
お祖父ちゃんにしっかり抱き留められたまま、しばらくしておばあさんの呼吸が整うと、三上さんはお祖父ちゃんに尋ねた。

「どういうこと? ふたりは知り合いなの? お祖父ちゃんは何を知ってるの?」
お祖父ちゃんはおばあさんから少し体を離し、三上さんとは目を合わさずにそっと言った。
「彼女は、何も覚えていない。許してやってくれ。彼女は、何も」
おばあさんは、またぐったり疲れたように、眠るように目を閉じてしまった。

Let sleeping dogs lie.

【let sleeping dogs lie】
(アクセント)lèt sléeping dógs líe
(意味・対訳)面倒になりそうなことはそっとしておく、寝た子は起こさない、やぶへびにならぬようにする

「Weblio辞書 英和辞典・和英辞典」より

三上さんが警察に連絡したあと、お祖父ちゃんは庭から掃き出し窓を開け、おばあさんを畳の上にそっと寝かせた。
要請した車を待つ間、庭で向かい合う三上さんとお祖父ちゃんを隠すように、薄雲が月を覆い始める。

「山本幸惠さんは、ある事件の被害者だ」
「事件?」
「ああ。山本さんは、この家に以前住んでいた。ただ、大昔の話で、終わったことだ。その事件の犯人は服役も終えている」
「なんの事件?」
三上さんが眉間に皺を寄せて聞くと、お祖父ちゃんは首を横に振って俯いた。言いたくなさそうだった。
「誰か、その事件で亡くなったの?」
縁側の隅に、切り花が数本、丁寧に置かれていた。
あれは、おばあさんの玄関に生けられていたシュウメイギクだとワタシには分かる。あのニオイも遠くから漂っていた。
お祖父ちゃんは勢いよく首を横に振る。
「いいや。誰も亡くなってなどいない。誰も!」
お祖父ちゃんの力強い言葉に、それでも三上さんは怯まなかった。
「山本さんは、よくここに来ていたの。お祖父ちゃんと会っていたの? もしかして、お祖父ちゃんが離婚する原因になった……その、あの。浮気を疑われた相手の女性……なの?」
お祖父ちゃんは深いため息をついた。
「いや。ここに住んでいた山本さんは、事件のあと、ここから引っ越した。だが、事件現場である家だ。なかなか売り手がつかなかったこの家を、俺は買い取ったんだ。それだけだ。俺は山本さんとほとんど面識はない。まさか、今日もここに彼女が来ているなんて知らなかった。本当だ」

最低限の話が終わったころ、おばあさんは迎えに来たパトカーに乗せられて半分眠りながら帰って行った。三上さんも、まだやらなければならない仕事の手続きがある。
「また来るから」
そう言って、ワタシたちは足早にお祖父ちゃんの家を後にした。

45年前、あの家で、悲しい事件が起きた。

一週間後、訓練所の休憩中に三上さんがワタシに説明してくれた。お祖父ちゃんと、お父さんからも詳しい話を聞いたらしい。

三上さんの話はこうだ。

45年前、それは当時1歳の娘を育てる母親だった彼女の、尊厳を奪う事件だった。宅配を装った男に押し入られ、娘の泣く傍で凌辱され、僅かな金品を奪われた。
男は似たような犯行を数回繰り返し、強姦致傷罪でやっと逮捕された。ただ、当時の強姦事件は親告罪だったため、特に怪我をしなかったおばあさんの件は、立件されていない。
強姦致傷罪で実刑判決が出たけれど、更生の余地があると言われたその若者は、法で定められた刑期を終えて、今はどうしているのか。誰も知らない。

おばあさんの当時の夫は、自分の身を守りきれなかった彼女を責め、事件後すぐ「汚らわしい」と言い放って家を出て行った。その夫が勝手に自宅の売買手続きを進めたため、気づけば彼女は不動産屋に追い出されるところだった。

当時、お祖父ちゃんは警察官だったけれど、その事件は担当外。でも、お祖父ちゃんの心に何かが響いたのかもしれない。
特に立地条件が良い訳でもない場所で、殺人事件ではないとはいえ、何らかの事件が起きた現場の家はなかなか売れないだろうと考えたお祖父ちゃんが自分の貯金をはたいて、さらに少々ローンも組んで購入したと言う。
購入後、まだ引っ越し先の決まっていない母子に暫く住まわせてもいたという。自分は警察署に泊まり込んで。

お祖母ちゃんは当然怒った。立件もされていない被害者に、なぜそこまで。
それから喧嘩が絶えず、一年後には離婚となった。
最終的な離婚のきっかけは、浮気を疑われたことではなく、お祖父ちゃんが警察を辞めたことだった。
その後、母子がその家を出ていくとお祖父ちゃんは、その家にひとりで住み始めた。暫くは日雇いのガードマンで生計を立てローンを返したそうだ。

三上さんはつぶやいた。
「私も、なぜお祖父ちゃんがそこまでしたのか疑問だわ。浮気を疑われても仕方ない。今もあの家に住み続けて、今でも山本さんに気持ちがあるってことなのかしら。会ってないって言っていたけれど」

山本幸惠さんは、実家のあった隣県に住んでいたけれど、娘さんの仕事の都合で数カ月前にこの町に戻ってきた。この町に戻ってから急に認知症の症状が出始めたらしい。
「徘徊」っていうけど、ただむやみに彷徨っていた訳ではなく、きっと昔住んでいた家に帰りたくて家を出てのかもしれない。
「彼女は何も覚えていない」と、あの時、お祖父ちゃんが言っていた。
辛い記憶を脳の奥深くに封じ込め、ただ昔、家族と仲良く暮らしていたころの思い出だけが蘇り、ふらっと帰りたい思いが芽生えたということなのか。
道を歩いている途中で現実に戻り、何をしようとしていたか分からなくなって、迷子になってしまったのだろうか。

三上さんは小さなため息をついて話の最後に付け加えた。

11月7日が娘さんの誕生日らしいの。
幸惠さんは花が大好きで。いつも家には花が飾られている。あの日も、思い出の家にお花を飾りたかったのかもしれないわね。

三上さんはそう言うと、ペットボトルのお茶をぐいと飲みほした。


「キャン!(ちがう)」
「え? モモ、どうしたの」
「キャン! キャン!(ちがうちがうちがう!)」

三上さんはワタシの顔をじっと見つめる。
「モモ……?」

(ちがう。分かったわ。あの花の意味)
「どうしたの。何か、言いたいの」

「アン! アン!(ワタシをもう一度、あそこへ連れて行って)」
この言葉、三上さんに通じて!

꒰ ՞•ﻌ•՞ ꒱ 第1わん 第2わん 第3わん 第4わん U´•ﻌ•`U


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