見出し画像

「死ぬ」ということを相手を変えさせるために提示してはいけないという話(短文)

昨今ツイッターで「国は安楽死を認めてください」というタグが定期的にみられるようになりました

これに対して私の意見としては、個人の「死にたい」という気持ちは認められてもいいとも思っています

個人の意見はそれぞれですし、立場も家庭環境も生い立ちも違いますし、「死を望む人」がいるのは当たり前です

当然相談員としてなら、できるなら「生きる」方向性に向いてもらいたいものですが、こればかりはやはり強制できることではないのです

私が違和感を覚えたのは、「一定数の人は「死ぬ」ことを盾に自分の意見を通そうとしている」ことです

「死にたい」と思うことと、それを強い言葉で主張し誰かを攻撃したり、脅したり、恐怖をあおる、意見を変えさせることは「別の問題」なのです

同時に当たり前のように存在する「生きたい」と思う人の気持ちも踏みにじらないようにしなければならないのです

「死ぬのを認めてください」の裏には「生きるのを認めてください」という思いも隠れています

結局やっていることは、「生」と「死」の押し付け合いです


これは不毛ではありませんか?

主義・主張は個人の勝手ではあります

しかし、議論を重ねるためには、自己実現のためには、それ相応の段階を踏まなければならないのです

以上になります

これからも少しづつ投稿していけたらと思っています。

質問等あれば、書き込んでいただければ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?