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好評既刊/加賀野井秀一著『感情的な日本語』試し読み

2024年5月9日発売(6月号)「サライ」(小学館)の「サライBOOKレビュー」で、加賀野井秀一著『感情的な日本語』をご紹介いただきました。
今回はこれから本を手に取る方に向けて、本の内容を一部お見せします。
ぜひご一読ください!


装画は森優さんに描いていただきました。

■本の内容

日本語論の専門家として多数のメディアに出演してきた著者が、日本語の特徴を歴史的に紐解く。
そのメカニズムと私たちの思考との関係性とは?

■ご推薦の言葉

「日本語は感情的であるとの著者の指摘に大いに同感。私たちに必要なのは「遠望する視覚」。これもまた 頷かずにはいられない。日本語の誕生に始まり、進むべき道をもわかりやすく的確に示してくれる一冊。」

平野卿子さん(翻訳家、『女ことばってなんなのかしら?』〈河出新書〉著者)

「なぜ、俳句は、十七字で,心情まで表せるのか、著者の指摘で明確になった。俳人、朗読家として、目からうろこの絶対読むべき本だ。著者の長年の研究による言葉の数々の例文例句は、思わず笑えて興味深い。ますます日本語が大好きになる一冊だ。」

白井京子さん(朗読家、俳人、司会者)

■試し読み

言語ってなんだろう?
「言語ってなんだろう?」 ーー言語学の授業を始めるにあたって、私は毎年、まずは学生諸君にこう問いかけるのですが、返ってくる答えは、ほぼ決まっています。つまるところ、「自分の考えていることを相手に伝える手段です」とか、「コミュニケーション・ツールです」とか、およそそのたぐいになるでしょうか。もちろん、いずれも大正解。だがね……と、そこから私は細かいところにこだわり始めます。

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皆さんは、考えを伝えるための手段だとか、ツールだとか言うけれど、本当に、言語はそうした伝達のための単なる道具でしかないのだろうか。少しイメージ化してみると、この場合、皆さんの頭の中には、まずはあれこれの「考え」が転がっている。それを運搬車としてしつらえられた「言語」に手ぎわよくのせ、よいしょっと相手の方にさし向ける、といった感じかな。すると、これを受けとった相手もまた、その荷物に触発されて「考え」を生み出し、こいつをまた、あちらから運搬車にのせて返してくる。そんな運搬車のような働きをするのが言語だということになるね。
なるほど、ここにまちがいはない。だが、どうだろう。きみたちが相手に伝えたいこの「思い」とは、つまり、言語という運搬車にのせられる以前から頭の中に転がっていたはずの「考え」とは、いったいどんなものなのか。またそれ自体は、どのようにしてできあがってきたのか。ひょっとすると、それが生じるプロセスにも、すでに言語が一役かっていたのではないだろうか、と、そんなことにも思いをめぐらしてもらいたいものだなあ。これはつまり、私たちは言語なくして物事を考えることができるのかどうか、という大問題にもつながってくる。私たちには、たとえば「愛」ということばなくして愛という「考え」をもつことができるのか。あるいは、私たちの考える「愛」と欧米人たちの考える「love(ラヴ)」や「amour(アムール)」とは同じ事柄を表しているのかどうか。さまざまな問いが生じてくることになるわけだね……。

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 こんなぐあいにして大学の授業は始まります。いかがでしょうか、本書もまたこのあたりを出発点にして、まずは、言語を研究することがなぜ必要であり、それがいかにおもしろく、手がたく、発見に満ちたものであるかをご紹介してみましょう。

翻訳できない芭蕉の名句
 かつて、アメリカ人翻訳家とよもやま話をしていて、おもしろい話題にたち至ったことがありました。ほかならぬ芭蕉の名句「しずかさや岩にしみいる蝉の声」が、そのままでは英訳できないというのです。いったいなぜなのか、読者諸兄姉はお分かりになるでしょうか。そう、この翻訳家が悩んでいたのは、蝉の数。英語では、名詞を単数か複数かに決めなければ文章が書けません。つまり彼にとっては、ハムレットよろしく「a cicada」なのか「cicadas」なのか、それが問題だったのです。
 すでにこの句をめぐっては、斎藤茂吉と小宮豊隆とのあいだで「アブラゼミ」か「ニイニイゼミ」かの論議がたたかわされ、こちらはおおよそ「ニイニイゼミ」派の勝ちとなっているのですが、その蝉の数については、必ずしもコンセンサスが得られたわけではないらしい。たしかに蝉しぐれ全体のサウンドが岩にしみいるとも、一匹だけの繊細な響きがしみいるとも、さまざまに考えることができそうです。あるいはまた、「蝉しぐれ」の騒々しさと「しずかさ」との関係やいかに、時刻はいつがふさわしいか……と議論は果てることもありませんが、いずれにもせよ、ここでの問題は、名詞の単数か複数かに決着をつけなければ、英語では、そもそも言語化できないしくみになっているところにあるわけです。
 そんなしくみの英語話者からすれば、「え、日本語って単数・複数の区別をしないの? 信じられない! ひどくあいまいな言語じゃない?」ということになりそうですが、いかがでしょう。「いや日本語にだって〈々〉のような表記があり、これが英語の〈s〉と同じものになるんだぞ」と反論してみても詮ないもの。「山々」はよくても「海々」はダメ。ましてや「チョコレート々」など望むべくもありません。もちろん「さまざまな」「いろいろな」「もろもろの」などの形容句を使えば複数にはできるものの、多くの場合、同じものが複数あるというよりは、異種のものが混在するような感じになってしまうでしょう。
 結局、「数々の」「たくさんの」というところでかろうじて妥協するか、ついには「複数の」という直接的な形容で表さざるをえなくなるわけで、私たち日本語話者には、たしかに、全体として単数・複数をつねに見分けるという英語話者のような認識法はそなわっていないことになりますね。では、日本語はあいまいな言語という評価に甘んじなければならないのでしょうか。

(本文15頁につづく)


いかがでしょうか。

続きが気になった方は、ぜひ書店などで手にとってみてください。

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