見出し画像

【掌編小説】101号室から聖なるガンガーへ

(あらすじ) 
とある街に住む住人たちのお話です。一話完結で、何人かの日常について書く予定です。

どこかすれ違っている人たちの日常を垣間見れたら、いいのにと思って書てみた。


渡辺 はづき(三十歳)の場合

 膝に広げていたファッション雑誌がざくざくと切り落とされた髪の毛で覆われていく。担当してくれている、同世代であろうスタイリストは以前阿佐ヶ谷に住んでいたことがあると言った。

「阿佐ヶ谷って、なぜかインド料理店が多いんですよ。」

ぱっと顔を上げると女性は目を細めてにこにこしていた。中杉通りの近くのインド料理店はカレーより巨大サイズのナンが売りで、とくにチーズナンが絶品だったという。へぇ、そうなんですねぇと笑いながら、スタイリストの頭から首まですっぽりと覆う、焦げ目のついたナンを想像してみた。

ふと、先日の美容院での会話を思い出していた。疲れ切った重い体を引きずるようにアパートへと歩きながら、マッチングサイトの画面を開く。商社勤務 三十三歳 筋トレと料理が趣味の男性は、白い歯を見せて爽やかな笑顔を向けている。
次。
営業 三十歳 趣味カフェ巡り、クラフトカップを片手に持ち、くっきりとした瞳で上目遣いをしている。
次。
それから何件かプロフィールに目を通してから、ため息をついて画面を閉じた。

一度、会うところまで進んだ男がいた。彼はシステムエンジニアで、読書や映画と趣味も合い、それなりに会話も弾んだ。しかし会った後メールが途絶えた。期待も好意も特段あった訳ではなかったが、なんだか自分の価値を否定されたようで癪だった。

田舎にいる母親からはいつ結婚するのかと心配され、友人たちは結婚ラッシュで、俗世に漂う透明な圧力に耐えられなくなり、とりあえずマッチングサイトに登録したものの、既に気力は失われつつあった。

アパートの前まで来て、足を止めた。本日も101号室の部屋からはスパイスの香りが鼻孔を抜け、体内をもわもわと漂いながら空腹を刺激していった。勢いよく、腹がぐうぅうと鳴り響いた。

もう少しだからと言い聞かせる。部屋に辿り着いたらスパゲッティを茹でてミートソースのレトルトをかけて食べよう。9時近い時間に仕事から帰宅して、ちゃんとしたものを作る気力など残っているはずがない。カレーの香りがだだ漏れの101号室を通過し、空腹に押しつぶされそうな体を振り絞り、階段を上がろとした。

がらら、と窓が開く音がして視線を移した。くりくりした目を向け、どっしりとした体格に、日焼けした肌の女性がベランダから、にかっと笑った。部屋の中からは空腹を支配していたスパイスの香りが一気に押し寄せ、夜の空気のなかに広がっていった。その匂いに失神しかけながら身動きがとれなくなる。しばらく立ちすくむわたしを見つめていたインド人の女性は、口を大きく開けて笑った。聞き取れない言語で呟きながら、くすくすと笑っている。

女性は手招きをした。わたしはそのふっくらとした手に導かれるように部屋の扉を開けていた。

ガンジス川に沿って寺院やモスクが並ぶ市街地を、足をふらつかせながら歩き、入り組んだ小路に寝そべる牛を避けて、道端に漂うスパイスの香りを追いかけた。その先に大量のナンが積まれた屋台が現れる。流離う旅人は数日ぶりに差し出されたナンとカレーを夢中で口に入れていく。そんな、空想を繰り広げながらあっという間にカレーを平らげ、銀色の器は空になっていた。
温かいカレーは空洞を熱で満たし、口の中はスパイスの味に支配されていた。インド人女性は嬉しそうに目を大きく広げ、空の器にカレーを盛り、市販のナンを温めてきてくれた。彼女はふっくらとした丸い指先で器用にナンをちぎって、一緒に頬張った。

「ごちそうさまでした。」
「ゴチ・・・ソ、サデシタ?」

女性は片言でその言葉を聞き返した。わたしはその言葉をヒンドゥー語では説明することは不可能なので、手を合わせ、頭を下げるポーズをしてみせた。
「ナマステ!」
彼女は嬉しそうに笑った。伝わったのかよくわからなかったが、笑い返した。
「あ、あの、お名前は?」
「?」
わたしは彼女の名前を聞いたが、勿論通じない。自分を指さして、は、づ、きと何度も発音した。自分の名前を繰り返すうちに彼女はハヅキと言って、ああ~と納得したように反応し、彼女も同じように自分を指差し、ジャーヤと言った。
「ジャーヤさん。」
「メーラ ナーム ジャーヤサンヘイ。
(わたしはジャーヤサンです。)」

ジャーヤさんの周りを見渡すとその部屋は雑多なインドの街そのものをぎゅっと圧縮したようであった。キッチンにはスパイスの瓶が散らばり、ジャーヤさんの後ろの壁には青空に映える大理石のタージマハルや、天空に聳えるヒマラヤ山脈のポスターが貼られ、左手には民族衣装を纏った人々の写真が飾られている。

その写真は色褪せ、端が小さくひび割れていた。よく見るとその中の一人は、若い頃のジャーヤさんであった。彼女は美しく、大きな金色の耳飾りに情熱的な赤いサリーを身に着け、吸い込まれてしまいそうな大きな瞳で見つめている。彼女の肩を抱く年配男性はターバンを巻き、彼女と同じぐらい大きな瞳で規律よく並んだ白い歯を見せ、にかっと笑っている。

彼女は頬を赤くさせて興奮した様子で暗号を並べるように話しはじめた。おそらく、写真の説明をしているのだ。

ジャーヤさんは話し終えると、テーブルの上に置かれた細長い木箱のようなものに、お香を一本立てた。スパイスで充満した中にその香りが混ざり合い、漂っていく。高円寺の古着屋の中にいるようだった。

それから図々しくも、ベランダでジャーヤさんと目が合えば、家に上がり込み、料理を振舞ってもらうことが増えた。
ジャーヤさんといると、とても心地よかった。わたしたちは言語で意思疎通ができず、互いの生い立ちや家族構成、仕事についても十分な情報を得ることができない。なぜ、ここ日本の東京都杉並区阿佐ヶ谷の閑静な住宅街にあるサンバレーハイツの101号室にやってきたのだろうか。彼女はインドでどのように生まれ育ち、どんな景色を見てきたのだろう。

最初は意思疎通が不自由でも身振り手振りで、なんとなく共感し合うことはできた。拙くても、まるでわたしはヒマラヤ山脈を羽ばたく鳥になった気分で、勝手にジャーヤさんと旅をしているようだった。
しかし、もっとジャーヤさんのことを知りたかった。だからわたしは図書館でヒンドゥー語の本を大量に借りて勉強をはじめた。

仕事帰りの夜の図書館で勉強していると頭が研ぎ澄まされ、東京とインドの境目が曖昧になっていくようだった。それに、なぜ学生の頃にこれほど勉強しなかったのかと嘆き、その後悔の念をヒンドゥー語学習にぶつけるのだった。マッチングサイトのことはもう、どうでもよくなっていた。

ある日、仕事帰りに阿佐ヶ谷駅近くのカフェに寄った。食事を済ませ、レジに向かうと映画館のパンフレットが置かれ、手に取った。ミニシアターのもので、上映スケジュールの中にずっと気になっていたインド映画の名前があった。

金曜日の夜、わたしはジャーヤさんとミニシアターを訪れた。(まだ話せないので、パンフレットを指差して、行こう!とどうにか誘った)受付で二人分の料金を支払い、学生であろう若い女性から、映画のジャケットが印刷されたものを小さく切り取った手作り感溢れるチケットをもらった。コーラ2つとポップコーンも買って、中へと入る。

劇場は三十席ほどあり、わたしたちは真ん中あたりに腰を下ろした。

映画がはじまった。突然繰り広げられる激しいダンスに、体の内で鳴り響く鐘のような鼓動を感じ、リズムに合わせて小刻みに首を揺らした。上映が終わり、インドの魅力を確信したわたしは、更にどっぷりとハマっていったのだった。

205号室で踊っていたら下からクレームがきた。なので映画はジャーヤさんの部屋で見た。インド人俳優のダンスを二人で真似て、片足を激しく振り回しながら笑い転げた。

ジャーヤさんはバラナシで生まれ育ち、ガンジス川での沐浴は日常的な風景だったという。旦那と離婚し、かつて憧れていた日本に移り住み、新たな人生を歩もうと阿佐ヶ谷に来たのだ。
わたしは拙いヒンドゥー語を交えながら日本語を教えた。彼女も同じようにそうした。その会話は阿佐ヶ谷とバラナシを行き来しているみたいだった。こうして一年が経つ頃にはジャーヤさんの故郷での暮らしが垣間見えるまでになっていた。

いつか、インドに行ってみたい。

その夢は膨らむばかりで、気がつけば携帯のトップ画面はタージマハルに変わり、マッチングサイトは退会していた。

扉を叩く音で、ばっと起き上がった。早朝に何事かと思い、ドアの穴を覗くとジャーヤさんがいた。驚いて扉を開けると彼女は腕を回し、抱きついた。
「ジャーヤさん、どうしたの?」
「はづき、わたしインドに帰ることになったの。」
えっ、とわたしは声を漏らした。ジャーヤさんは鼻を啜ってから体を離し、涙で滲んだ大きな黒目を向けた。
「そんな・・・。」
「あなたと過ごせてとても楽しかったわ。これは住所とメールアドレスよ。」
ふっくらとした指から紙切れを受け取り、下を向いたまま見つめた。すると涙が零れ、文字のインクが滲んでいった。堪らなくなってわたしはジャーヤさんに抱きついた。
しばらくそのまま、何種類もの香辛料と寺院で漂うような白檀が混ざり合った香りを胸いっぱいに吸い込んだ。ジャーヤさんは優しく背中を摩ってくれた。

 朝焼けの光を受けた聖なるガンガーは、オレンジ色に輝いている。その上を大勢の人々を乗せた船が行きかい、岸辺では野良犬が寝そべり、身を清めるための長蛇の列があった。

ナマステー、と言いながら駆け抜けていく子供たちに答え、小路を進んでいく。バケツに顔を入れて餌を食む二頭の牛を横切ると、大きな通りに出た。早朝とは思えないほどの活気で溢れ、いくつもの屋台が連なる中の、大量にナンが積まれている店の前に来た。巨大な鉄鍋を振り回す男性がウインクをし、わたしは手を振った。

店内は朝食を取る客たちで埋め尽くされている。奥の厨房に行くと、ジャーヤさんが手を上げて、ハヅキ!と言ってにかっと笑った。わたしも笑い返し、彼女の隣に並んで調理をはじめる。
「今日も忙しくなるわよ、はづき。」
「そうね。でもきっと最高の一日になると思う。」
「いいわね!はづき、日本にいた頃よりいきいきしているわ!」
「ジャーヤさんのおかげよ。終わったら今日も踊りましょう!」

そう言ってわたしたちは笑い合い、野菜をザクザク切っていた。



呼び起こされた情熱と万物を清める大河に身を委ね、この地でわたしは生きていくと決めたのだった。

おしまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?