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「虹の音色」 第17話:人を、救うこと

 パララランッ。
 
「っ!?」

 飛び上がった。充電器に挿した携帯電話から着信音が鳴っている。

 僕、いつの間に眠っていたんだ。というか、今何時だ。
 重たい体を動かし、携帯電話を手に取る。時刻は深夜2時。

 いや、そんなことはどうでもいい。早く出ないと。

 3コール程して僕は携帯電話の通話ボタンを押す。

「……あい、もじもじ」

 ダメだ。頭が上手く回っていない。眠たさでまともな声も出せない。

『もしもし、コールフレンドってこれで合ってますか?』

 空色。行方先生だ。
 おいおい、もうさすがに大人げなさすぎるでしょ。ドSにもほどがある。

 僕は携帯電話の通話口を手で押さえ、咳払いをする。そして気合いを入れる。

「はい、合ってますよ。僕はコールフレンドの桜川と言います」

 頭は未だに上手く回転していないが、なんとか話すことはできる。

『……あの、すみません。夜遅くで迷惑でしたか?』

 迷惑です。言いそうになりかけた。ダメだよ。相手はクライアントなんだから。

 僕は口角を無理やり上げる。

「いえ、そんなことありませんよ。何かお悩みがあってお電話してくれたんですか?」
『……はい、そうなんです』

 行方先生は深夜のわりに普通に話している。どんな技能使ってるの? というかこの人は無尽蔵なの?

「お悩みを、聞かせてもらえませんか?」
『…………』

 電話の先は無言だ。息遣いは聞こえるから通話が切れたわけじゃないと思うけど。

「もしもし?」
『あ、すみません……、その、話しづらくて』

 このパターンは知っている。まずは傾聴。しかしその前にまずは相手に寄り添う。

「悩んで、眠れなかったんですか?」
『……はい、そうです』
「それはおつらいでしょう。僕も同じような経験をしているのでそのつらさはわかりますよ」
『……はい』
「あなたは何に、悩んでいるんですか?」
『それは、その……』
「…………」
『…………』

 なかなか話したがらない。僕のアプローチが間違っているのか。

 悩みが言えないのはなぜか。緊張しているのだ。だったらまずはその緊張をほぐさなくちゃならない。

「今、お部屋から月は見えますか?」

 僕は立ち上がり、部屋のカーテンを開け、空を見上げる。

『え』
「今日は天気が良いので月が綺麗に見えますよ」

 電話の先でカーテンが開かれる音が聞こえる。

『本当だ。星も見えます』
「綺麗ですね」
『はい』
「夜空を見ながら、深呼吸をしてみてください。窓は開けたら寒いと思うので開けないでいいですよ」

 明るい調子で言ってみる。

『……すぅ、はぁー』
「もう一度」
『すぅ、はぁー』

 電話の先で深呼吸をしているのが聞こえる。2度目の深呼吸は1度目よりも綺麗な深呼吸だった。まるで本当に緊張しているみたいだ。

 ……うん。演技にしては上手すぎる。霞ヶ浦さん以上だ。

「少しは落ち着きましたか?」
『はい、でも……』

 まだ、話すことはできないか。

「ゆっくりでいいですよ。関係のない話でも構いません」
『わかってるんです』
「はい」
『……話しても、解決する問題じゃないって』
「問題とはそういうものです。ですが、話したら気が楽になることもありますよ」
『……はい。それは、わかってるんですけど』
「一緒に考えてゆきませんか?」
『一緒に、ですか?』
「はい、問題は簡単に解決できないかもしれません。ですが、一緒に考えたら少しは参考になるかもしれません。そして僕は、あなたの気持ちを、理解したいと思っています」
『……はい』
「ゆっくりでいいんです。少しずつ、少しずつ、お話を聴かせてもらえませんか?」
『わかりました』

 少し、さきほどよりも正気がある声になった。

「ありがとうございます」
『……それじゃあその、お話、聞いてください』
「はい」
『友だちのことです』

 友だちのこと。霞ヶ浦さんに対する話もそうだった。いや、先入観は捨てろ。違うクライアントなんだ。

「お友だちのお悩みなんですね」
『はい、その……』
「はい」
 僕は夜空に浮かぶ月を見上げる。うん、だいぶ頭が回るようになってきた。
 これなら――

 
『私には、病気の友だちがいるんです』

 
「っ!?」
『…………』

 電話の先は無言だ。しかし、息遣いから緊張と暗い気持ちが伝わってくる。

 空色の声が、暗く、沈んでいる。
 全身に伝わってくる。わかる。
 
 ――この言葉は、演技じゃない。
 
「びょ、病気のお友だちですか」
『……はい』
「……どういったご病気なんですか?」
『それは言いたくありません』

 はっきりとした物言いだ。その言葉は黒い格子のように固く、厚い。たぶん、何を言っても答えてくれないだろう。

「お友だちがご病気で、それがおつらいんですね」
『……はい、私には、何もできない。誰も、何もできない。誰も、友達を救ってあげられない』
「深刻な状況なんですね」
『……はい』

 病気の友だち。嘘じゃない。
 行方先生には病気の友だちがいるんだ……。
 
『ごめんなさい。それはできないんです。もう、私にできることはこれまでです』
 
『あなたを信じています。必ず、あなたは救える。だから、前に進んでください。死を選ばす、生を選んでください。私にできなかったことを、あなたに、託します』
 
 中学生のとき、結城凪砂さんと話したときの言葉をふと思い出した。
 
 私にできることはこれまで。
 私にできなかったことを、僕に、託す。
 
 ……どうして、今思い出すんだ。もしかして行方先生の言う病気の友だちって――

 いや待て!
 完全に思考が偏っている。先入観の塊に頭がとらわれている。

 どうして僕は――
 
 行方先生の病気の友だちを結城凪砂さんだと思っているんだ。
 
 違うだろ。落ち着け。たしかに行方先生の言葉は嘘じゃない。行方先生と結城凪砂さんに関係があったのも間違いない。

 でも、それがなんだ。
 それだけじゃ何の答えも導き出せないだろ。

 今朝、先入観にとらわれず相手に寄り添う。そう学習しただろ。

 一旦、すべて頭をリセットするんだ。

「そのお友だちとは仲が良いんですよね」
『……親友です』
 
 ドクン。
 
 自分の心臓の鼓動が強く、聞こえる。

「大学の同期生だった」
『言いたく、ありません』
「同じ、コールフレンドだった」
『……言いたく、ない』
「結城、凪砂さん」
『…………』
「…………」

 電話の先は無言だ。しかし嘆息する音が聞こえた。

『……やっぱり、桜川くんにはわかってしまうのね』
「……本当に、そう、なんですか」

 行方先生の親友で、大学の同期生で、コールフレンド、そして病気。

『ええ、ロールプレイのはずだったのですが、ダメですね。つい、本音が漏れてしまいました』

 やはり今日は忙しくて疲れたのか、それとも別の理由か、行方先生の声には寂しさが感じられた。

「全部、本当なんですね」
『やはりあなたは凪砂に似ている』
「似て、なんて」

 あんな純白な声で、誰かの視点に立ち、希望を与えてあげられる人間と僕が似ているなんて想像もつかない。まさに正反対のように思える。
 
『凪砂は人の声を聴いたら、心の声を聴ける』
 
「心の、声?」
『ええ、相手の声を聴いたら、その人の考えていることがわかるんです』
「そんなことって――」

 できるはずがない。でも、言えなかった。

 たしかに僕が結城凪砂さんと話したとき、僕はほとんど何も言わなかった。それにも関わらず僕の心の中を読んで、それに応対してくれた。

『できたんです。あなたと同じです。桜川くんは人の声を聴いて嘘を見破れる。少しの感情の変化を読み取ることができる』
「僕は、そんな――」
『凪砂は、人の心の奥底の深いところまでゆき、ゆき続け、戻ってこられなくなってしまいました』

 人の心を聴ける。読める。まるで超能力だ。しかしそれは羨まれるものじゃないのかもしれない。人の心を常に読めるということは――

「常に、人の闇に触れ続ける」
『その通りです。凪砂は昔からそうでした。常に周りの音を聞き、その心の奥底までを聞き取っていた』

 僕と同じなんかじゃない。僕は声の雨にさらされ、それに耐えられなかっただけだ。

 でも結城凪砂さんは僕の比じゃない。大量の人の声を聞き、その心の中まで聞こえる。

 人の心を読めるのは、場合によっては喉から手が出るほど欲しい力かもしれない。

 でも、その力が常にある状況ってどんな状態なんだ。

 常に人の心が聞こえるということは、周りに人がいれば常に声が聞こえるということだ。

 しかも人の心の中には闇がある。そんな闇に苛まれ続けるなんて。
 そんなのって、地獄じゃないか。

「普通、そんなの耐えられない」
『ええ、だから凪砂はできるだけ人の少ない環境で育ってきました』
「行方先生は昔から知り合いだったんですか」
『物心が着く頃から一緒でした。そしてそのときの凪砂は、周りから敬遠されていた』
「……ひどい」

 でも、仕方のないことかもしれない。相手が自分の心の中を常に読んでいるなんて思ったら気軽に近づけないものかもしれない。怖いと、思う人もいるだろう。

『凪砂は人の少ない環境で育ったと言ってもこの日本においては限界があります。凪砂は常に極限状態でした。だから、私がカウンセラーになって救う。そう思ったんです』
「そうだったんですか」

 行方先生のそんな過去があるなんて思わなかった。

『でも、そうしたら凪砂もカウンセラーになると言ったんです。自分の力を、存在意義を見出せるのはカウンセラーしかないって』
「でも」
『凪砂はカウンセラーにはなれませんでした。同じ大学で、カウンセラーになるための特訓として推進されていたのが、コールフレンドです。私と凪砂はコールフレンドになりました。そうして凪砂は多くの人を自分の力で救いました。でも、同時に凪砂は限界を超え続けていた。私がもっと早く気付いていれば凪砂はあそこまで限界に行かなかった……』
「……先生」

 電話の先で歯を食いしばる音が聞こえる。

 後悔。罪悪感。行方先生の声はどんどんくすんでゆく。心が、くすんでゆく。

『……限界を超え続けた凪砂は、動けなくなってしまいました』
「動けなく、なった? 今、結城凪砂さんはどうなってしまっているんですか」
『……今は、完全に音を遮断した状態で入院しています』
「そ、んな……」

 僕に手を差し伸べ、救ってくれた人は、その救いの手によって自分を動けなくしてしまった。もう、結城凪砂さんは音が聞こえない。人の闇に触れ続けたせいで、壊れて、しまった……。

「…………僕の、せいだ」

 自然と視線が下へ行く。

 綺麗な黄色の月と星々は見えない。ただ見えるのは暗闇の部屋。

『桜川くんのせいじゃないですよ』
「でも! 僕のカウンセリングも原因のひとつじゃないですか!」
『落ち着いてください』
「…………僕が」

 膝から崩れ落ちた。

 手を差し伸べてくれた人を追い詰めてしまっていた。僕の人生を救ってくれた人を壊してしまった。僕が電話をしなければ、カウンセリングを受けなければ壊れなかった。

 唇から血の味がする。涙が床に零れ落ちる。

『凪砂は自分の意思で人を救っていたんです。自分にできることはそれしかないと思い、必死に救っていたんです。その気持ちを、カウンセリングを、否定しないであげてください』
「…………」
『凪砂は常に笑っていました。それは、つらさを隠すための虚勢だったかもしれません。でも、それだけじゃない。凪砂は誰かの役に立てたことを本当に喜んでいたんです』
「…………僕は、結城凪砂さんのおかげで今、生きてます」
『それは凪砂が最も望んでいたことです。凪砂はなんて言っていましたか』
 
 思い出す。純白のあの声を。

「……つらかったら、私の声を思い出してって」
『ええ』
「……僕だからこそ、救える人がいるって」
『ええ』
「……私にできなかったことを、僕に託すって」
『じゃあ、桜川くんにできることはなんですか』
「……僕に、できること?」
『はい。託されたあなたができることはなんですか』
 
 託された僕にできること。
 

「人を、救うことです」

 
『その通りです』

 行方先生は寂し気に、しかし、喜びの感情を抱いた声でそう言った。

「託された僕は、人を救える」
『そうです。凪砂は無責任にそんなことを言う子じゃありません。本当に、あなたなら、桜川くんならそれができると信じて、凪砂は託したんです』
「信じて、託してくれた」
『はい。だから、凪砂が信じたあなたを、信じてください』
「……僕を、信じる?」
『あなたなら、凪砂ができなかった人を救い続けることができます。私は凪砂を、あなたを信じています』
「無力な僕を、信じてくれるんですか」
『そんな謙虚な心を持ち、それで常に成長し続けようとする強い心に、凪砂は惹かれたのでしょう。いいですか? よく聴いてください』
「……はい」

 
『あなたは、凪砂と私の希望です』

 
「……僕が、希望?」
『あなたは凪砂が希望を見出した唯一の人です。そしてその託された希望を繋いでゆく。それが私の希望です。もし自分が無力だと思うなら、私が育てます。それが、私の希望だから』
「……僕に、そんな重大な希望を叶えられますか」
『叶えてください。それが、あなたにしかできないことです』
「僕にしか、できないこと」
『凪砂を救ってくれるのは、あなたなんです』
「でも、結城凪砂さんはもう――」
『繋いでください。凪砂が伸ばした手を、取ってあげてください。あなたは凪砂に手を伸ばし、救ってもらった。でも同時に、凪砂はあなたに手を伸ばしたんです。あなたに、救いを求めたんです』
「……救いを、求めた?」

『自分にできること、自分の存在意義。それを繋いでほしい。自分が信じた人に託して、多くの人を救う。それが凪砂にとって、自分の存在意義を見出せる唯一の、救いなんです』

「僕が、結城凪砂さんの存在意義を見出せる人間なんですか」
『そうです。そうして、凪砂の存在意義を肯定させてあげる。それが、私の救いにもなるんです』
「先生の、救いに」
『凪砂の頑張りが、報われてほしいんです』

 行方先生の声は震えていた。

『凪砂は頑張った。頑張って夢を叶えられたんだよって、伝えたいんです。伝わらないかもしれないけど、それでも、伝えたいんです』
「……先生」
『凪砂は常に苦しんでいた。それでも、それだからこそ、凪砂にしかできないことができたんだよって私は、伝えたい』

 伝えたい。結城凪砂さんの思いを繋ぐようにして、行方先生は多くの人を救ってきたんだ。結城凪砂さんの代わりにできることを、精一杯やってきたんだ。そうして思いを繋いできた。

 そして今、その思いは僕に繋がっている。だったら、だったら!

 
「伝えてみせます!」

 
『……桜川くん』
「たしかに僕は無力で、全然まだ、結城凪砂さんのように多くの人を救うことはできません。でも、僕を救ってくれた人を救えるなら、頑張りを、夢を託してくれたのなら、僕は全力でその希望を叶えたい。多くの人を代わりに救って! 救って! 救って! 僕を救ってくれて、託してくれてありがとうございますって伝えたいです!」
『……ええ、あなたなら、それが、できます。どうか、私たちを救ってください』
「はい。引き受けました」

 僕は立ち上がり、空を見上げる。綺麗な月と、輝く多くの星々が見える。

『ありがとう、ございます』

 行方先生は声を震わせながらしかし、安心したような声で言う。

「これからもご指導、よろしくお願いします!」
『もちろんです。ふふっ、少しえこひいきが過ぎることもあると思いますが』
「厳しくお願いします」
『わかりました。でも、しっかり自分のメンタルヘルスケアも行ってくださいね』
「はい。大丈夫です」

 今の僕なら大丈夫だ。
 僕は自分に自信がない。今までの人生何もしてこなかったし、何かを成し遂げたこともない。逃げてばかりの人生だった。でも、そんな僕でも、信じてくれる人がいる。

 だから、僕は僕を信じる。

『しっかりカウンセリングしてもらっちゃいましたね。教え子にカウンセリングしてもらうとは思ってませんでしたよ』

 先生は明るい調子で言う。

「いやっ、僕は全然、何もしてないです」
『本当に謙虚ですね。でも、その謙虚さを忘れず、これからも精進してください』
「はい、頑張ります」
『それでは、これで合宿でのロールプレイ電話は終わりになります』
「えっ、そうなんですか」
『他のゼミ生もそうですよ。これ以上プレッシャーを与え続けたら疲弊してしまうので、日中に1回。深夜に1回のシステムでした』
「深夜に1回。だから他の学生に掛かる電話の着信音で起きないよう1部屋空けていたんですね」
『その通りです。よく気が付きましたね』
「まさか深夜に掛かってくるとは思いませんでした……」
『意地悪でしたかね』

 行方先生は笑いながら言う。やっぱこの人楽しんでるよ。

「……良い経験になりました」
『それなら良かったです。来週以降、ゴールデンウィークの辺りからこういった電話がある可能性は十分ありますので、頑張ってください』
「はい」
『それでは、この辺りで失礼します。本当に、ありがとうございました』
「あ、いえ、こちらこそありがとうございました。失礼します」

 通話は終わった。
 僕は携帯電話を充電器に挿し、ベッドにダイブした。

 疲れた。でも、それ以上に充実感に体が染みわたっていた。

 夢、希望。託されたものがある。たしかにそれらは僕なんかからしたら大きなプレッシャーだ。電話では息巻いたが、正直まだ自分に託された夢や希望を叶えられる自信はない。


 でも決めたんだ。


 僕は自分を信じてくれた自分を信じるって。

 ベッドで仰向けになり、手を伸ばす。

 暗闇の中、その手には何もない。
 でもいつか、この手に掴めるものはある。その手を決して離したりしない。

 空を掴む。拳に力が入る。

 
 自然と笑みが浮かび、腕をベッドに落とす。

 僕は久しぶりに安らかに眠れた。
 


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