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「恋するキューピッド」 第8話:伝言

 教室がざわめく中、クラスメイトの連中が乱れた机と椅子を直し始めた。

 オレは言葉を失っていた。

「あんなに怒ってる天使くん、初めて見たよ」

 朝比奈がオレに向かって言う。

「……いや、あいつは多分、怒っていたわけじゃない」
「そうなの? 鈴木くんの代わりに怒ってたんじゃないの?」

 朝比奈はオレに問う。そうだ。空は基本的に本気で怒ったりしない。そんな無駄な労力を使うぐらいなら恋愛にエネルギーをまわす。あいつはそういうやつだ。

 でも、朝比奈はそう思っている訳ではないみたいだ。だったら、オレが余計なことを言うべきじゃない。

「ああ、いや、さすがにあいつも見過ごせなかったのかもな。あいつは優しいやつだから」
「さすが久我くん。天使くんのことわかってるね。天使くんって今までこんな風に怒ったりしたことあるの? 1年生の時は常にフワフワと学校を楽しんでるだけのように見えてたから。あんな天使くんを見てびっくりした」

 正直、オレも驚いた。空があんな風に興味のない同性に向かってエネルギーを使うのは今まで見たこと――いや、昔は違ったか。

「昔は、小学生の頃は怒ってたりもしてたな」
「え、そうなの?」

 朝比奈は意外そうに口元を押さえ、目を見開く。

「昔のオレたち……いや、昔の空には好きな人がいてな」
「あ~天使くんって昔から変わらないんだね」
「いや、昔の空は今とは全然違ってた」
「昔はどんな感じだったの?」
「気になるか?」

 つい面白くなって笑いを堪えられず朝比奈に聞く。朝比奈は一瞬、目を見開き、頬を染めてそっぽを向く。

「……いや、べつに」
「ふっ、昔のあいつはいっつもぼーっとして何考えてるかわかんないやつだった。きっと何も考えてなかったんだろうな。喜怒哀楽、感情がないっていうか」
「今みたいな恋愛脳じゃなかったの?」

 朝比奈は首をかしげ、不思議そうにしている。

「ああ。恋愛どころか、異性にも同性にも、人間すら、つーか、何事にも興味が無くて、生きてること自体に興味がないって感じだったな。なんか実際、昔そんなこと言ってた気がする。何もかもがつまんないってな」
「へぇ、なんか意外。人って変わるもんなんだね」

「あいつを変えたやつがいたんだ」

「誰?」

 朝比奈は興味津々といった様子でオレに聞いてくる。

 オレは、今でも忘れられない、忘れたいと思ってもできない過去を思い出す。

「……七海彩虹ななみあやこって女子の同級生だ」

 オレは彩虹を思い出し、つい俯いてしまう。俯いてもただ床しか見えないのに。

「もしかして、その人が天使くんの初恋の相手ってこと?」
「そうだ。彩虹はすげえ明るいやつで、空を振り回した。最初は振り回されていること自体にも興味がないというか、どうでもいいって感じだったんだけど、次第に空は変わっていった。空の中に色んな感情が芽生えるようになっていった。まるで、何も無かった大空に虹が掛かったかのように……」
「大空に、虹が掛かる……」

 思い出す。当時、クラスの中心だった彩虹とオレで面白がって空にちょっかいを掛けていたといった感じだった。今考えたら何やってんだかって思う。

 いつもつまんなそうに無表情で無感情に生きている空の反応が見たかった。だから彩虹とオレは空に積極的に話しかけ、遊びに誘ったりもした。

 どうでもいいといった感じで、嫌がりもせず空はオレたちに付いてきた。そうしていつの間にか3人で一緒にいることが多くなった。

「初めて空が感情を出したのはたしか、彩虹がクラスメイトにちょっかいを掛けられてた時だな。彩虹はハーフで見た目が周りより少し派手だったから小学生みたいな幼い子どもからしたらからかいの格好の的だったんだよ。

 まあでも、彩虹は活発で喧嘩も強かったからだいたい返り討ちにしてたんだけどな。だけどそんな風に彩虹が他のやつらにちょっかいを掛けられていた時に、空は初めて怒った。オレも彩虹も驚いたよ。空の感情を見たのは初めてだったから」

「七海さんが好きだから、怒ったっていうこと?」

「その時は、どうだろうな。空自身、自分の感情、行動に驚いてたからな。でもその時、思ったんだってよ。彩虹やオレが悲しんでたら悲しいし、怒ってたら怒るって。そっから本格的に空は変わっていった。彩虹とオレの感情に呼応するようにして空の感情が形成されていった。3人で喜んで、怒って、悲しんで、楽しむようになった。感情豊かになった」

 今でも鮮明に思い出せる。学校で一緒にイタズラして喜んで、一緒に怒られて泣いて、それでも最終的には一緒に笑った。そんな日々を過ごす中で、空に大きな感情が生まれた。

「感情が豊かなになった天使くんは、七海さんに恋をした」

 朝比奈はオレの考えていることがわかるかのように、視線を少し落としながらそう呟いた。

「さすがだな。お前も空のことをよくわかってる」
「そ、そんなんじゃないよ」

 朝比奈は照れ隠しで首を横に振る。

「そっからの空はすごかった。彩虹に対して積極的にアプローチして、そんで振られてた」
「振られてるのは相変わらずなんだね」

 朝比奈は苦笑いをする。

「でも今の空とは全然違う。何度振られても挫けずアプローチして、その度に振られて、また告白して振られて、そんなことの繰り返しだった」

 いつの間にか空は彩虹のように活発で明るい人間になっていった。まるで、彩虹の人格が空に移ったかのようだった。

「……たしか、天使くんのモットーって一度振られたら二度とアプローチしない、とかっていう下らないものじゃなかった?」

 朝比奈の物言いについ笑みが漏れる。

「昔はそうじゃなかったんだよ。本当に真っ直ぐ、挫けず、何度でも彩虹に自分の思いを伝えていた」

 明るく活発になって、彩虹にアプローチをしていって告白する空を見てオレは焦った。

 どうして、こいつはオレにできないことを平気でやってんだよ……。

 なんでだよ。振られるのが怖くねえのかよ。今まで積み上げてきた関係が崩れるかもしれねんだぞ。普通、無理だろ。無理だ……。

 オレには、できなかった……。

「昔の自分を見習ってほしいね」

 ホントだ。見習うべきだ。今の空じゃなく、その時のオレが。

「あいつはそういう訳にもいかないんだよ」
「どうして?」

「空はまた変わった。また、彩虹によってな」

「何かあったの?」
「オレたちが小5から小6になる時の春休み、彩虹はいなくなっちまった」
「……い、いなくなったって」

 朝比奈は口を手で塞ぎ、目を見張る。

「ああべつに死んだってわけじゃねえよ。ただ、転校したんだ」
「そう、だったんだ。じゃあそれ以降も関係は続いたの?」

 オレは唇を強く噛む。

「……いや、音信不通になった。どこに転校したのかも、そもそも国内なのかも海外なのかもわからねえ。どうして急にいなくなっちまったのかもわかんねえ」
「……どうして」

 こっちが聞きてえよ。
 本当に未だにわかんねえんだ。どうして急にいなくなっちまったんだよ……。

「そこで学校で下らねえ噂が広まった。空が彩虹にしつこく付きまとうからそれが原因でいなくなっちまったんだって。そんな根も葉もない噂が流れて、そんで多分、空はその噂を鵜呑みにしちまった」
「ひどい。天使くんは絶対に悪くないのに。そんな噂、気にしなくていいのに……」

 朝比奈は口を手で押さえ、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
 その様子を見てオレは心が温かくなった。

 ホント、こいつは空のことを思ってやってんな。

「オレも空は悪くないって言ったんだけどな。僕のせいだ、僕のせいだって言って聞かなくなっちまった。そっから、今の空のモットーが生まれたって訳だ」
「……そんな理由があったんだ」

 彩虹がいなくなった後、空は塞ぎ込んでしまった。小学6年生の間、ずっと悲しみ続けた。その間もずっとオレは空の近くにいたけど、あいつは1年間、一切笑わなかった。

 そして3月になり、オレたちが小学校を卒業した後、空は立ち上がった。
 それは小学校を卒業し、オレが無理やり空を外に連れ出した時に偶然、オレたちが花屋に寄った時のことだった。

 空はある花を見て、そして花屋を出て大空を見上げて言った。


――大地。僕は彩虹がくれたものを絶対に忘れない。彩虹がくれたこの心を、否定しない。彩虹が好きだったという感情を否定しない。僕の心を大切にする。なんだか、彩虹が背中を押してくれている気がするんだ。だから僕は、前に進むよ。


 そう言った空は笑っていた。

 彩虹のおかげで芽生えた感情を、人を好きになることを教えてくれた彩虹のことを思うからこそ、空は自分の心を受け入れようと思ったんだ。せっかく彩虹が教えてくれた感情を無駄にしないために、空は自分の感情に従って生きてゆくことを決めた。

 彩虹が好きだった自分を肯定し、そしてまた彩虹を好きになったように誰かを好きになることを喜びとした。だが、どうして空がそこまで恋愛に固執するかはわからない。

 いや、本当はわかってる。でも、その真意はとても残酷で悲しいものだから。

 だからと言ってオレはそんな空の気持ちを否定することはできない。

 それは空が受け入れた現実だから。

 お世辞にも綺麗な感情じゃないかもしれない。それでも、空は前に進むことを選ぶ強い意思を持っているから。

 オレにそんな空を否定することなんて許されない。なぜなら――

「……オレは空と違って前に進めない」
「え?」

 オレの独り言に朝比奈が反応する。

「空は乗り越え、前に進んでいる。でも、オレは乗り越えることも、前を向くことができない臆病者だ」

「……乗り越えられない。もしかして久我くんが一途に思いを寄せてる相手って――」

「そろそろ空の説教が終わったところかな。行ってくるわ。じゃあな」

 オレは朝比奈に手を振り、別れる。これ以上、余計な話はしたくなかった。

 思い出したくなかった。思い出すと、罪悪感で押しつぶされそうだった。

 彩虹は最後にオレと会った時に空に伝言を残した。その時にはもう、彩虹はもう転校することを知っていたからオレに伝言を残したんだろう。


――ソラに伝えておいて。今まで素直になれなくてごめんって。好きになってくれてありがとう。あたしも空のことが好きだよって。


 オレは、未だにその伝言を空に伝えられていない。


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