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日記1/26 失われた「失われた時を求めて」を求めて

「失われた時を求めて」は名作だが
「失われた時を求めて」の名言を引用する人はあまり信用ならない。

名言紹介みたいなのが流れてきて、ついそう思った。

あんな長編小説においては
たった2, 3行を切り取ったとて
作品の真意を図れるわけないと思わされる。

(というか、本当に読破した人が作中の言葉を使って語るとき、そんな浅すぎる名言解説するのか?)

と、思いつつも
我が身を省みれば
例えば平家物語の序文しか思い出せないまま
源平合戦の所業無常を体感した気になり

あるいは枕草子の数段しか知らぬまま
をかしの文学を賞賛していた、10代半ば。

後に成長した私は、
解説を頼りながら何とか古典を読み
1000年前のスキャンダルや下世話や
雅な大和文化だけでは隠せない泥沼感に
引きつつも、一周まわって面白さを感じたけれども

知ったかぶりの10代の時間を
常に恥じる我が身である。

失われた時は戻らないが
戻らないから一生涯恥を感じる。

「ハジの多い生涯を送ってきました」と嘆くのは
何も人間失格の冒頭だけでも
それを読んで感化された10代の私だけでなく
10年、20年経った後の私だって嘆き続けている。

しかし今からだって反省は活かせる。
「失われた時を求めて」を読破すれば
また昨日の知ったかな自分とオサラバできる。

そういって、本棚にある読みかけの一巻目を開き
そして冒頭を読んで思い出した。


……この翻訳、クセが強すぎて読むの諦めたんだ。


私は、新しい訳(吉川一義)の1巻をネットで探し
他の本と一緒に配達されるのを待つことにした。


きっと明日か明後日の私が、この本を読んでくれるだろう。
今日という時は、既に失われてしまったけど。

そして未来の自分は
今日の私を
信用できない人間だったと嘆くのだろうか。


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