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まじまじ ジロジロ

旧年中は拙note(?)を読んでくださってありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願いします。
サザンカはもう少し咲いててくれるかな。梅の開花も楽しみだ〜。

さて新年早々重めだけど、ひところ“視線”にひどく悩んで攻撃的になりかけていた話をしようと思う。

ぶつからないか、ぶつかられないか、つまずかないか……と、常に注意を研ぎ澄ましているうちに緊張状態が抜けなくなったせいだろう。興味本位に投げかけられる視線が引き金、病気をしている負い目や健康への不安を強く再認識してしまうようになった。ひろくいえば自意識過剰の一種。
気にしすぎと笑い飛ばす気力や自信をなくした人間にとって、視線が突き刺さるような錯覚は辛くおそろしいもの。ぶしつけな視線に行き当たるたび消えたくなっていた。

こどもが当惑してじろじろ見るのは仕方ない。一時期はその率直すぎる視線や反応さえも受け止められなかったけど。
ほんとに嫌なのは、こちらをショーウィンドウのマネキンとでも思ってそうなくらい無遠慮に眺めまわし、すっと目を逸らす─そういう大人の視線。いわゆる値踏みするような目の動かし方。品がない。

…なんて書いてるうちに、ちょっとした例外があったのを思い出した。

ある日の昼。
ピークを過ぎた電車内には空席もあり、わたしは端の席に掛けた。数駅過ぎたあたりで視線を感じてキョロキョロすると、少し離れたところに座る人の視線とぶつかった。先方は目が合ったのを気にする様子もなく、なおもこちらを見ている。警戒感がMAXになったそのとき、この乗客はわたしの顔を見て「大変だろうけど大丈夫だよ、きっと」というように何度かやわらかく頷いてみせたのだ。
わたしは虚を突かれ、思わず軽く会釈した。

あらゆる人の視線にしても、あの乗客の頷きの意味にしても、こちらの思い違いかもしれない。しかしわたし自身が「ねぎらわれた」と確信できたら、もはやその視線を恐れる必要などないのは間違いなかった。

人をジロジロ見ちゃう癖がある方は今すぐにでもおやめになった方がいいけど、黙ってジロジロ眺め回してしまってる自分に気づいたら、相手に対する思いやりをすぐ行動にうつすといいのではないだろうか。特に病人や怪我人に対しては。それならプラマイゼロにできるかもしれない。

今まさに何か不安に苛まれているひとへ。
何かに対して極度に緊張し集中を研ぎ澄ませなければいけない環境にいる自分、もしくはかつてそこにいた過去の自分をちゃんと正しく受け止めていたわってあげてね〜。

それでは今日はこのあたりで。
ごきげんよう!

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