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なぜ「おじさん」はキモいのに、「おじいさん」はキモくないのか

 中高年男性を示す「おじさん」という用語が本質的にネガティブな要素を持っており、この表現を全面に押し出すとどうしても微妙な感じの意味合いになってしまうことは前回の記事で述べた。

 しかし、不思議なのは「おじいさん」という言葉は「おじさん」ほどネガティブに捉えられていないことだ。どちらも老化現象が進んでいる男性を示す言葉であり、「おじいさん」の方が遥かにそれが深刻にもかかわらずだ。ネット上でも「おじさん構文」は嫌悪の対象なのに対し、「おじいさん構文」はどちらかと言うと礼儀正しいイメージで捉えられている。この差異は一体何なのか。今回はこの違いを考えてみようと思う。

性的要素

 両者のキモさの違いを分けるものとして、性的要素を挙げることができる。おじさんは性的魅力に乏しい一方、本人はまだ性欲が残っている年代だ。したがって若年女性から見ると「おじさん」はかなり有害な相手ということになる。「キモオタ」と同じニュアンスだ。

 一方の「おじいさん」はというと、性的魅力は皆無な一方、本人も性欲が枯れ果てていることが多い。したがって若年女性にとって「おじいさん」は本能的に安全な存在ということになる。

社会的地位

「おじさん」の嫌われように反して、この社会で最も力を持っているのは中高年男性だ。総理大臣も上場企業の社長も大半が中高年男性である。中高年男性は社会的強者なのだ。

 しかし、こうした地位に就けなかった男性はただ老化しただけの汚物として見られる。「おじさん」の格差社会はとんでもなく激しい。強者の「おじさん」は大量の人間を従えている一方で、弱者のおじさんは嫌悪の対象となる。社会通念上、中高年男性は社会で最も強大な力を持っていると考えられているため、社会的な役割や責任から切り離された「おじさん」という表現はギャップによりネガティブになってしまうのだろう。

「おじいさん」にこの問題は起きにくい。社会的には引退する年齢だからだ。「おじいさん」はどちらかと言うと弱者であり、保護される対象だろう。弱々しい「おじいさん」は手を差し伸べられる余地がまだ残っている。

 要するに、「おじさん」は相応の地位・財産・家庭などを求められているため、それらを切り離すと嫌悪の対象となる。「おじいさん」はあまり期待されていないので、嫌悪感も少ないということになるだろう。

「お父さん」との違い

 日本語には親族を意味する用語で他人を表現する語法がある。「おじさん」も「おじいさん」も同様だ。

「お父さん」と「おじさん」は世代として同一だ。「お父さん」という言葉にネガティブな要素は一切ない。一つは「お父さん」がすでに生殖に成功している人間を指すからだろう。中高年男性の明暗を分けるのはそれまでの人生の積み上げで、家庭はその代表格なので、「お父さん」という言葉は年齢相応のポジティブな概念である。「おじいさん」もこの延長として捉えることができる。

 ところが「おじさん」にこの要素はない。「お父さん」「おじいさん」というラインから外れてしまっているのだ。「おじさん」という表現は地位や肩書を無視した「何者でもない」中高年男性を示すことが多いが、これは家庭面でも同様だろう。「おじさん」という表現は本質的にその人の家庭的要素を無視した表現だと思う。

 男性は何もしなくても「おじさん」になっていくが、「お父さん」は相応の努力をしないとなることができない。「おじいさん」も同様だ。これらの違いが「おじさん」という言葉のネガティブ要素を産んでいるのかもしれない。

 なお、最初の性的要素の問題とも関わってくる。「お父さん」は通常妻子ある身という前提が置かれるので、性的魅力という要素からは切り離されている。ところが「おじさん」は妻子の存在が内在化していないので、若年女性にとっては自分に近寄ってくるリスクが存在するというわけだ。

叔父はどうでも良い存在?

 親族語からの派生となるが、「お父さん」が自分にとってどうでもいい存在という人間はいないだろう。もちろん仲が悪いとか、毒親だという人は多いだろうが、原理原則としては自分にとって重要な存在である。

 同様に、「おじいさん」の存在もまた自分にとっては重要だ。「お父さん」よりも重要度は格段に下がるが、それでも小さい頃遊んでもらう等、思い出は残っているはずだ。

 ところが「おじさん」は距離が遥かに遠い。「おじさん」の重要度は親族の中でもかなり低いだろう。タダでさえ成人して世帯を持つと兄弟は疎遠になるのだ。「おじさん」となれば、ほとんど関わりがないケースが多い。祖父の地位や財産を引き継ぐことはあっても、叔父のものを相続する可能性は低い。したがって「おじさん」という日本語は「おじいさん」に比べて他人事のような由来を持つことになる。

まとめ

 それにしても中高年男性とは奇妙な生き物だ。会社では「部長」、家庭では「パパ」と呼ばれているのに、一歩そこから外に出ると軽蔑される存在となる。人間のピークは50歳前後だろうが、これは適切な積み上げを行った場合に限られる。過去の積み上げから切り離された場合は中高年男性は20歳よりも下の存在となるだろう。

「おじさん」というのは中高年男性の社会的役割を無視した存在なので、当然やや軽蔑のニュアンスが込められている。中高年男性が尊敬されるのはこれまでの地位・スキル・財産・家庭・学識などがあった上でのことだ。これらを無視するとキモい存在となってしまう。

「おじいさん」は元から社会的な役割が期待されていないので、ギャップは少なくなる。それに「おじいさん」という言葉は本来孫の存在を前提としているため、内在的に家庭という「肩書」を含んでいる。これらの事情が「おじさん」と「おじいさん」の間に横たわる違いなのかもしれない。

 結論から言うと、中高年男性は「おじさん」ではなく、「お父さん」「部長」「ベテラン」として見てもらえるように振る舞ったほうが賢明だろう。

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