悠仁さまの東大進学について思うこと

 最近、悠仁さまが推薦入試で東大に進学するという噂がかなり濃厚になっている。悠仁さまの進学先は以前から常に議論になっており、農大説や筑波大説など色々合ったのだが、ここにきて東大という説が頭一つ抜けて有望になっているようだ。筆者は東大に推薦制度が導入された時にもしかしてこのためか?と疑ったこともある。筆者はお茶大附属の事情には詳しいのだが、悠仁さまの入学される数年前に謎の推薦制度ができたのを目にしたからだ。しかし、東大の場合はあまりにも社会的な立ち位置が違うので、流石に皇室が原因で推薦制度が導入されたという可能性は薄いだろう。

 ところで、悠仁さまの東大入学に関してネット上で反対運動が展開されているらしい。特にネット上で話題になったのはこの文章である。

 このような言説に対し、東大OBの中には反対する者も多いようだ。筆者としては、確かに東大にはこのような気風があることは間違いないものの、流石にここまで極端ではない。少なくとも平均的な東大のゼミで学生同士の潰し合いが行われているという話は聞いたことがない。

 そもそも東大生が内部競争に熱中するのは超難関の入試を突破したという「勢い」があるからだ。車が急に止まれないのと同じである。したがって、特に参加したくなければ東大の内部競争に無理して参加する必要はないし、東大生の半分くらいはそうやってのんびりと暮らしている。推薦の場合は進振りがないから、尚更である。

 要するに、戦いは同じレベルの者の間でしか存在し得ないのだ。東大入試を突破したというプライドが高い人間は激しい内部競争に突入してより強い者に殴られて終わるし、そういう話に興味の無い人間は普通にキャンパスライフを謳歌する。豊かに育ってきた悠仁さまの場合は変なプライドは無いだろうから、巻き込まれる危険性は低いと思う。東大生は悠仁さまの特殊な立場を理解できないほど馬鹿ではないし、常識的な敬意を持って迎えるはずである。

 では筆者は悠仁さまの東大進学に肯定的か?というとそうではない。どちらかと言うと良くないと思う。もう決まってしまったのであればあれこれと議論するのは不適切かもしれないが、現時点ではどうなんだ?という心境である。

 筆者が悠仁さまにあまり東大をオススメできない理由は、東大の校風が天皇という立場において不要あるいは有害になるからである。東大はメリトクラシーによって選抜されたエリートであり、天皇のような世襲エリートとは全く毛色が違うのである。

 先程の記事では悠仁さまが「馬鹿」として扱われることが問題とされていたが、裏を返せば悠仁さまが東大生並みの頭脳を持ち合わせていれば問題は存在しないということになる。しかし、正直なところ、こちらのケースの方が筆者としてはイメージが良くない。というのも、高貴な身分の人の風格は、生まれた時から苦労を知らず、豊かに育っていることによって生まれるからだ。それらが東大のエリート的な雰囲気によってかき消されてしまうだろう。

 皇室の気品は生まれてから一度も苛烈な競争で人を蹴落としたり、格下の立場に置かれなかった余裕から生まれるものだ。貧すれば鈍するというように、立場が不安定になるほど人間は苛烈な性格になっていく。強者が威張った態度を取るのは不安の裏返しやそれまでの劣等感の結果であることが多い。人類社会において圧倒的な強者は弱者に対して無関心か同情的であることがほとんどだ。

 東大生の多くは豊かに育っているはずなのだが、いわゆるお坊ちゃま校にいるような余裕のある上品なタイプはあまり多くない。激しい競争社会によって余裕をなくしているからだ。豊かに育っているにも関わらず、部分的に貧困層のようなメンタリティになっているのである。言ってしまえば、東大はそれほど上品な環境でないのだ。

 確かに貧困層が社会的に上昇できるルートは必要だし、格差社会を肯定しているわけでもない。東大の社会的使命は学歴社会の頂点に国立大学が存在することによって比較的安い学費で社会の幅広い層から学生を集めてこれることだ。これは慶応幼稚舎のような私立名門校とは全く違う理念である。東大という教育機関の社会的使命は平等な競争にあり、そこには生まれによる身分制ではなく、学力による階級制が存在するのである。

 皇室は日本において唯一残っている身分制度だ。やはり生まれながらに高貴な人たちを作り出し、社会的な使命を担ってもらうという制度はそれなりに意味があるということになる。海外の名門大はOBの師弟の枠や富裕層のコネ枠があるという。偏差値至上主義の社会では忘れられがちだが、そうした「生まれ」によって価値を見出される人たちにも一定の役割がある。日本においては皇室がまさにそれである。

 しかし、こうした貴族的要素は東大という学校においては完全に排除されている。容赦の無い実力主義エリートの社会に未来の天皇が入っていく必要があるのだろうか。言うならば証券会社のノルマ地獄やホストの売上競争に皇室が参加すべきと言っているようなものである。こうした環境に染まった場合、天皇としての品格は大いに損なわれるのではないか、筆者はそういった感覚を抱いている。

 皇室という存在は現代日本によってあえて競争社会から隔離された聖域である。例えば総理大臣になるには選挙に出馬し、党内抗争を経て頂点を勝ち取らねばならない。天皇は競争社会に似合わないし、他人に評価されたり他人を蹴落としたりという要素自体が品位を損なうだろう。天皇は何かの根拠があって尊敬されているのではなく、尊敬されるために存在している。実力主義競争社会の論理は皇室をその他大勢の一般エリートに組み込んでしまう。

 皇室の社会的責務は「万人の皇室」であることだ。だから政治的関与は厳禁だし、全ての人間に好感を持ってもらえるような無難な表現に最大限の注意を払っている。好きなテレビ番組すら言わないことがある。特定の番組を褒めれば、競争相手のテレビ局は相対的に劣位に立たされるからだ。皇室は万人のための皇室であるために、競争に関与してはいけないのだ。

 確かに悠仁さまが東大に進学したところで蹴落とされる人間はいないだろう。皇室はこの点に関して最大限の配慮をするだろうからだ。悠仁さまが入学される年の推薦合格者は例年より多めになるだろう。しかし、東大の気風はあくまで競争社会なので、東大の気風に染まってしまったり、東大に入ったことがアイデンティティになってしまったら、象徴としての風格を損なうことになってしまうかもしれない。

 学歴という観点で考えると、悠仁さまの雰囲気は完全に小学校受験組のそれだろう。しかし、東大は中学受験のカルチャーなので、全く異質である。筆者の周囲にも小学校から私立に通っているようなアッパー層の東大生は何人か知っているが、多くが途中で学歴主義的な考え方に染まっていった。香川照之が良い例だろうか。筆者の周囲で1人だけ貴族的風格を保っている東大生がいたが、後から知ったところによると一度別の大学を出て再受験してきた人らしかった。意外かもしれないが、学歴競争が必要ないアッパー層の人間に限って学歴の魔力にハマりやすいのだ。おそらく秋篠宮ご夫妻も同じだろう。

 センシティブな話題なので奥歯に物が挟まったような論調になってしまったが、一言でいうと「東大は皇室にとっては下品な環境だから、オススメできない」ということになる。皇室は立場上、政治やビジネスといった「下賤な」競争社会からは距離を起き、もっぱら文化的活動に専念されてきた。東大のアイデンティティの中核である偏差値もまた政治やビジネスと同様に下々による競争の一つである。天皇陛下に庶民が出世するための肩書は不要だろうし、むしろ天皇の品位を一般国民のエリートと同等に下げてしまう恐れすらあるのだ。皇室が選挙に出たら品位が損なわれるのと同じである。

 というわけで、大変僭越ではあるが、悠仁さまの東大進学はあまりオススメできないのである。東大に限らずどの大学も入試がある以上は偏差値的な要素は求められるだろうが、いくらなんでも東大は極端すぎるのである。筆者としてはもっとマイルドな校風の大学に進み、点取り競争から解放された真の文化的な素養を深めていただきたい思っている。

 余談だが、旧皇族には東大に進学した人がいるらしい。一度学習院女子大を出てから天皇陛下のお后候補になったが、雅子様に敗れ、そのあと再受験で東大医学部を卒業して精神科医になったという話である。

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