ハマス最高指導者の暗殺作戦の地政学的影響ついて考察する
先日、衝撃のニュースが飛び込んできた。なんと、ハマスの最高指導者である、イスマイル・ハニヤ氏がイラン訪問中に殺害されたとのことである。殺害の手法は不明であり、ミサイルが使用されたという説と爆発物が仕掛けられていたという説があるのだが、いずれにしてもイスラエル諜報機関の犯行であることは間違いない。いつもと同じイスラエルの暗殺作戦である。今回はこの暗殺作戦が及ぼす影響と最近の中東情勢について考えてみたいと思う。
暗殺大国イスラエル
諜報機関というのは実際はかなり地味な仕事らしい。ミッション・インポッシブルのような派手な任務はほとんどなく、延々と現地に滞在して新聞を読み続けたり、延々と外国の電波を傍受し続けたりと言った具合である。殆どの情報はノイズであり、重要なものは万に一つしかない。合法的な情報の収集のほうがメインということもある。
しかし、イスラエルだけは違う。この国の諜報機関は建国以来長年にわたって映画のようなアクロバティックな作戦を実行しており、その代表格が暗殺作戦なのである。イスラエルの暗殺作戦は諜報機関のモサド・シンベト・アマンによって実行され、最終的な承認は時の首相が行うという噂である。
イスラエルに暗殺された人間は数え切れない。エジプトに兵器を提供しようとした西ドイツの科学者が暗殺されたり、イラクで秘密兵器をを開発しようとしたカナダ人技術者が暗殺されたりといった具合である。アイヒマン拉致作戦のように殺害しなかったケースもある。南米に逃げたホロコースト実行犯を殺害したこともあるし、1972年のミュンヘン五輪事件を引き起こしたPLO幹部を皆殺しにしたこともある。
1993年のオスロ合意以降はイスラエルの暗殺作戦の多くはハマスを対象とするようになった。西岸とガザでシンベトによって頻繁に行われる暗殺作戦はもはや超法規的処刑のような様相を呈するようになった。しばしば暗殺の舞台は海外にも及ぶ。ドバイのホテルでハマスの幹部が暗殺されたこともあった。ハマス以外でも、イランの核開発担当者が暗殺されたこともあった。テヘランの路上で白昼堂々である。イスラエルの諜報機関は中東の各地に深く浸透しており、どんな地域であっても暗殺作戦が実行可能のようだ。
こうした動きは今後も続くと思われる。2023年10月7日の「アルアクサの洪水作戦」を受けてイスラエルの世論はハマスとの共存は不可能であると判断しており、ネタニヤフはハマスの幹部を決して許さず、根絶やしにすることを明言している。今後も暗殺作戦が続くことは間違いない。
イラン国内の暗殺は好都合
今回の暗殺はハニヤ氏が普段住んでいるカタールではなく、イランで行われた。イランの新大統領の就任を祝うために渡航した隙を突いてである。敵国イランでの鮮やかな暗殺作戦はモサドの能力が凄まじいものであることを示しただろう。
ただし、イランでの暗殺作戦は政治的にはむしろ「楽」だったということは付け加えねばならない。カタール国内での暗殺作戦は大変な問題を生じるからだ。カタールはイスラエルとの国交こそないが、一応はイスラエルと繋がりを持っている国家であり、そのためハマスとの交渉の舞台となってきた。イスラエルがカタール国内で作戦を実行しようとすれば、カタールの反発をかって厄介なことになるだろう。
西側諸国での暗殺は現在はほぼ不可能である。そんなことをすれば現地政府は怒るに違いない。もし東京都心でイスラエルによってパレスチナ人が殺害され、通行人が巻き添えになったとしたら、日本の政府と世論はイスラエルに大して厳しい態度を取るに違いない。西側諸国での世論はイスラエルにとって生死を分ける重要要素であり、ただでさえ少ない友好国を遠ざけることはしたくないだろう。アメリカがイスラエルを甘やかしているという批判は常に効かれるが、アメリカ国内での暗殺作戦は不可能に近い。そんなことをすれば即座に議会で問題になるだろうし、万が一アメリカ国民の命が奪われれば前理科のこれまで通りの対応は望めなくなってしまう。
イスラエルにとってはむしろイランのように敵対している国で暗殺作戦をやったほうが良い。どのみち敵対しているので、世論の反発を考える必要がないからだ。イラン国内ではデモが発生しているが、イラン国民がどのように思おうともイスラエルとの対決姿勢が変化するとは思えない。民間人が巻き添えになったとしても、大きな問題にはならないだろう。その点ではイラン国内での暗殺作戦はむしろ「楽」なのである。
イランはイスラエルに戦争を仕掛けるつもりはない
この事件を受けてイランがイスラエルに戦争を仕掛けるのではないかという懸念がある。しかし、その可能性は結構低いのではないか。イランはいままでの イスラエルとのトラブルに関してはルーチンワーク的な比例原則で返してきたし、今回も同様であると思う。
イランは2010年代とのサウジアラビアとの冷戦に勝利したことにより、中東で一気に優位にたった。もはやアラブ世界はイランに対抗する術を失っている。イランは本音ではイラクやシリアの支配に集中したいだろうから、イスラエルとの本格的な戦争に巻き込まれるのは避けたいだろう。一方、中東地域において反イスラエル政策は大変人気があり、イランとしてはイスラエルが過激な行動に出れば出るほど利益になる。イスラエルへの反感が強まればアラブ世界の不安定化が更に進むからだ。イエメンのフーシ派が遠く離れたイスラエルへ攻撃を仕掛けるのも、イスラエルとの闘争という「正義」を掲げることによって求心力を高めたいからだろう。
今回のイランはテルアビブへの攻撃をほのめかしている。事前に予告してくれるとは、なんと親切な侵略者だろうか。おそらくイランは限定的な報復でイスラエルへ毅然とした態度を取っていると見せつつ、本格的な戦闘をなるべく回避するはずだ。2010年代にサウジアラビアとの間で起こった冷戦に近い雰囲気となるかもしれない。イランとしてはイスラエルがいつまでもガザ地区の泥沼にはまり込み、レバノンやシリアがイランの支援に頼らざるを得なくなる状況は大変好都合である。
なお、イランにとってパレスチナ人はいかなる点でも同胞ではないことも注目すべきである。イランはペルシャ民族の国で、アラブ世界とは伝統的に折り合いが悪い。しかもシーア派のイランはスンニ派アラブ諸国と長年に渡る対立状態にある。イランにとっての同胞はレバノンのヒズボラはシリアのアサド政権であり、ハマスは便宜的に手を組んでいるだけの部外者なのだ。
ハマスは2011年のアラブの春でスンニ派勢力を支持し、イランやシリアと断絶してしまった。関係が修復されらのは最近のことだ。ガザ地区は孤立しており、イランが直接勢力圏に収められる場所ではない。それにガザ地区を手に入れたところで手に入るものは何一つないだろう。イランにとってハマスは大変都合の良い使いっ走りなのである。イスラエルが暴れれば暴れるほど地域は不安定化し、アメリカへの反感は強くなってしまう。イランはこれをチャンスとばかりに「シーア派ベルト」の支配強化に移るだろう。
ハマスはどうなるのか
一方、肝心なパレスチナの情勢はどうなるのだろうか。
戦争というのは普通は交渉によって政治問題を解決するために行われる。そのため、交渉相手は生かしておくのが普通である。実際、イスラエルとハマスは名目上は交渉を続けており、中立的な態度を取るカタールが両者の交渉の場となっていた。
ところがイスラエルはハマスの最高指導者を暗殺してしまった。したがって、ハマスとの交渉を通した解決は遠のいてしまったと言えるだろう。同時期にハマスの軍事指導者であるデイフ氏も殺害されたとこのことだ。国際刑事裁判所によって指名されたハマスの指導部は最高指導者のハニヤ氏、軍事指導者のデイフ氏、ガザ地区指導者のシンワル氏である。残るシンワルは瀕死とも言われるが、今のところ殺害は確認されていない。
最高指導者の暗殺が意味するのは、イスラエルがこの戦争を交渉で解決する気が薄いということである。どちらかというと、対テロ戦争におけるアルカイダのような扱いになるかもしれない。刑事犯罪者の延長線上として、ハマスの指導部に罰を与えるということだ。
この方針がもたらす最も深刻な影響は人質である。人質を軍事力で奪還するのは難しく、何らかの形でハマスと交渉しなければならない。しかし、ハマスとしては人質を返還してしまえば皆殺しにされることが分かっているので、停戦まで人質を返還することはないだろう。人質はイスラエル軍の空爆を抑止するという点でも使いでがある。
しかし、イスラエルの希望通りにハマスを軍事力で掃討するのはかなり難しいのではないか。戦争とはどこまで行っても政治の延長線上であり、仮に軍隊を壊滅させたとしても、相手国の国民が敗北を受け入れなければ戦争は解決しない。第二次世界大戦が終結したのはドイツと日本の国民が戦争が心底嫌になったからであり、軍隊が消滅したからではない。戦意が残っていた場合はそれこそイラクやアフガニスタンのような状況になっていたはずだ。
現時点でガザと西岸におけるハマスの支持は強く、むしろ上昇傾向にあるかもしれない。こうした現実を考えると指導部を暗殺したところでハマスに入りたいという若者は無限に現れるだろう。ガザ地区を統治できる存在が他にないという点も拍車をかける。代案となるパレスチナ政府はあまりにも弱く、誰一人として関係者は彼らに期待していないようだ。
イスラエルにガザ地区を支配する政治力はない。軍事力は政治力の手段に過ぎないという点を良く表しているのがガザ地区である。いくら軍事力を振りかざしてもイスラエルにガザを支配する政治力が無いため、無限に続くもぐらたたきとなる。
イスラエルの内政混乱
イスラエルの内政もひどい混乱状態にある。ネタニヤフ首相は1990年代から首相をやっている重鎮だが、元々オスロ合意との反発から生まれた政治家である。ネタニヤフは2014年のガザ侵攻も実行していた。ネタニヤフは汚職によって刑事訴追されており、第三次ネタニヤフ政権が成立したこと自体がかなり議論の的だった。この政権はイスラエル史上最も右寄りの政権とも言われ、極右政党が強い影響力を持っている。2021年辺りからパレスチナ情勢はかなり不穏であり、いつ衝突が起こってもおかしくなかった。なおイスラエルの極右政党はハマスとそう変わらない宗派主義であり、西側で彼らを支持している人はあまりいないだろう。
ネタニヤフは逮捕寸前であり、政権にとどまるには極右政党の助けが必要だ。この事情が戦争は更に混迷に陥れている。ネタニヤフには戦争を終結させるメリットがほとんどなく、むしろ自体が悪化すれば悪化するほど良いかもしれない。イランとの緊張悪化は西側世界の目をガザの窮状から逸らせるので好都合である。
注意すべきは、ネタニヤフの人気がないからといって、イスラエル人が戦争を支持していないというわけではないということである。むしろ戦争自体の支持は熱烈だ。それほど10月7日の「アルアクサの洪水作戦」のインパクトは大きかったということである。イスラエルは国防軍の下(首相ではない)で団結し、一致団結して戦争を戦い抜くような風潮である。ウクライナのような徴兵忌避も少ない。
遠のく終戦
というわけで、2023年ガザ戦争の停戦はますます遠のいているようだ。イスラエルはハマスと交渉する気はなく、ガザ地区への攻撃も相変わらずである。地上軍は若干少なくなったが、空爆によってむしろ死傷者は増えているかもしれない。ハマスを壊滅させることは難しく、ガザの住民はますます憎悪に燃えている。仮に壊滅させたところで統治をどうするのかという問題がある。ネタニヤフは2024年いっぱい戦争は続くと明言していたが、有言実行となった。そのため、人質が返ってくることはないだろう。
戦争は周辺地域にも広がり、2010年代のイランVSサウジアラビアの抗争を彷彿とさせる。レバノン・シリア・イエメンでも散発的な衝突は発生しており、これらの背後にはイランがいる。ただし、イランは直接参戦するようなことはないだろう。そんなことをすればアメリカの憤激を買うからだ。少なくとも核兵器を手にするまではイランは慎重に行動するだろう。イスラエルが泥沼にハマるほど、イランとしては都合が良い。イスラエルに今後もありとあらゆる手でちょっかいを出し、煽り耐性の無いイスラエルは目立つような軍事行動を取り続けるだろう。
今後のガザだが、少なくともアメリカの大統領選挙が決着するまでは現状が続くだろう。現在のペースで戦争が続けば、年末までにガザ地区の犠牲者は4万5000人ほどになるはずだ。実際は未回収の遺体が1万ほど存在するらしく、飢餓による死者もかなり存在するらしいので、実際の犠牲者は更に多くなるだろう。イスラエル建国から2023年までに発生したパレスチナ人の犠牲者は2万〜3万ほどなので、2023年ガザ戦争の被害の大きさは突出している。「第2のナクバ」といっても良い水準である。ガザの戦争が2025年のどこかで終了すると考えても、犠牲者の総計は6万人程度となるだろう。ガザ地区の住民の3%が殺害されたことになる。
ハマスは交渉しようにもイスラエルが応じるとは思えないし、むしろ戦争が人目を引くほどハマスにとっては有利になるため、停戦への機運は盛り上がらないだろう。降伏するインセンティブがまったくないのである。
戦後のガザがどうなるのかはさっぱり分からないが、これほど多くの犠牲を出せばパレスチナ社会の抵抗の機運は薄れるかもしれない。ここまで来ると現在のチェチェン共和国のような冷え切った平和が訪れるだろう。パレスチナ国家の誕生は阻止され続けると思われる。イスラエルはガザ地区を完全封鎖し、ガザの住民は戦争のトラウマを抱えながらも復興に励むのではないかと思われる。