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なぜ「おじさん」を自称する人は微妙な感じに見えるのか

 ネット上ではしばしば「おじさん」を自称する人間がいる。実社会でもいないことはない。彼らは総じて微妙な感じがすることが多い。キモいとまでは言わなくても、微妙なのだ。若者のようなキラキラ感はないし、ユーモアが冴えわたっている訳でも無い。コンテンツはそれなりであっても、陰鬱さと威厳の無さがつきまとい、下の世代の人間から見て「こうなりたい」という魅力を欠いているのである。

 では実際の「おじさん」はどうかというと、素晴らしい人間はいくらでもいる。そもそも現代社会で最も力を持っている人物は中高年男性である。政治家・経営者・大学教授、その他高い地位についている人間は大半が中高年男性だ。このすさまじいギャップはなんなのか。

 社会で見かける人物を思い返しても、年齢相応の上品で魅力的な人物は多い。講演会一つとっても20代の若手社員よりも50代のシニア社員の方が話は圧倒的に面白い。このような違いはどこが原因で生まれたのか。考えられるのは、「おじさん」という概念が本質的にマイナスの要素を持っていることだろう。

 人間の身体能力は20歳がピークであり、そこからは下がる一方だ。しかし、人生のピークはそれよりも遅い。なぜなら経験や資産の積み重ねがあるからだ。ここで重要なのは年齢が増すに連れ、その人の肩書と立場の重要性が増すことである。積み上げた人間はより上に行き、何もしない人間はどんどん落ちこぼれていく。

 社会で力を持っている中高年男性は自分をなんと定義しているか。それは弁護士とか人事部長といった社会的立場だろう。彼らの発言や振る舞いは大変威厳があり、社会的に尊敬の対象となる。もちろん仕事上の肩書ではなく、「三児の父」といったものでも良い。実際に「お父さん」という肩書がネガティブな意味で使われることはまずない。

 ところが「おじさん」という語には何の社会的地位もないし、過去の積み重ねが反映されているわけでもない。「おじさん」という語に込められた意味は、単に肉体が衰えた中年男性というものでしかない。しかも背後には諦観とプライドが見え隠れする。「ベテラン社員(51)」が尊敬されることがあっても、「おじさん(51)」が尊敬されることはないだろう。もちろん自虐ネタという方向性もあるが、それにしてもインパクトを欠き、面白くないことが多い。

「おじさん」と似たような概念は「サラリーマン」だろう。仕事に前向きな人間が表で自分のことを「サラリーマン」ということはまず無い。「コンサルタント」とか「三菱商事〇〇部」などと名乗るはずだ。「サラリーマン」という語は内在的に「雇われの悲哀」という要素を含んでおり、サラリーマン川柳のようなイベントは大抵が自虐ネタや風刺ネタとなっている。巷の言説で「サラリーマン」という語を見かけると、大体がネガティブな要素を含んでいる。

 世の中には自分の疾患や失敗を表に出し、共感を求める人がいるし、それらを否定する訳では無いが、「おじさん」はこうしたコンテンツも遠い。あまりにもありふれている上に、妙に生々しいからだ。コミュ障とかHSPとかの方がまだマシかもしれない。

 要するに、半世紀の経験がありながらアイデンティティが「おじさん」はマズくないか、と思う。学歴や職歴とか育児歴とか、色々あるのではないか。そうした積み重ねを無化してしまうと、単に老化した不健康な人、で終わってしまう。ありのままの自分をさらけ出すのも必要だが、やっぱりそれなりに外向きの顔を作るのは大事だと思う。属性と属性を自慢することは別物だ。

 ところで、「おじいさん」はそこまでキモいイメージで語られることがない。「おじさん構文」と違って「おじいさん構文」は上品なイメージで語られているようだ。理由は定かではないが、「おじさん」と違って「性欲」や「上から目線」の要素が少ないからかもしれない。もしかしたら「キモイおじさん」は「おじいさん」になるまで生き残れない可能性もある。儒教精神がまだ残っている韓国を見ていると、「おじいさん」はポジティブな概念のようだ。

 ついでに言うと、「おばさん」にも同様の状況を考えることは可能だろう。「お母さん」や「おばあさん」よりもネガティブな要素が強い。親族として「おじさん」「おばさん」が未婚子無しである可能性はあっても、「お父さん」や「おばあさん」が未婚子無しである可能性は低い。したがって「おじさん」「おばさん」は何者でもないというニュアンスは強まる。性欲の対象となる歳ではないのに、結婚適齢期の人間かのように振る舞うという状況が思い浮かべられるだろう。

 これらを総合すると、中高年になるまでに積み重ねを行っていない人間はヤバいということになる。一流大学を出て弁護士として活躍し、妻子のある中高年男性は他に色々アイデンティティが存在するが、高卒・非正規・独身では「おじさん」以外に何も語れるものがないだろう。そして、「おじさん」という肩書はこれまでの人生の積み上げを無視する概念であり、本質的にネガティブな響きになってしまうのだ。

 家族関係のアナロジーを考えてみると人間は子供⇒お父さん⇒おじいさん、となっていくのであって、「おじさん」はこの系列のどこにも存在しない。むしろ系列からはみ出した存在だ。ここも「おじさん」という語が生まれてきた根源だと思う。

 結論として思うのは、中高年男性は「おじさん」以外のアイデンティティを確立すべきだ、ということだ。出世するとは言わなくても、せめて「ベテラン」とか「お父さん」とは名乗れるようにしておきたい。要するに、半世紀生きてきて、アイデンティティが「おじさん」はマズくないか。「おじさん」というアイデンティティは「無学」とか「一文無し」をアイデンティティにするようなもので、何も生産性がない。人生100年時代を快適に過ごすには、年相応の積み上げが必要となっていくだろう。


 

 

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