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ENTPが語る、一億総コンプラ社会の恐怖について

 パリオリンピック開幕寸前となっているが、筆者としてなかなか残念なニュースが飛び込んできた。女子体操のエースである宮田笙子選手が飲酒と喫煙を行ったことにより、日本代表を辞退するという流れになってしまったようだ。不祥事による代表辞退は史上初であり、直前だったこともあって補欠の出場は不可能で、日本の体操女子は4人で五輪に望むことになった。この対応を巡ってしばしば議論が交わされている。

 スポーツ選手にとって五輪は4年に一度の晴れ舞台であり、そのチャンスを奪われることは選手生命に関わる事態だ。刑事犯罪やドーピングなら分かるのだが、未成年者飲酒・喫煙に関しては、流石に均衡を逸脱しているようにも思えるのである。言うならば、未成年者飲酒・喫煙で大学受験の受験資格を4年間剥奪するようなものだ。以前、司法試験の問題漏洩事件で受験生が司法試験の受験資格を5年間剥奪されたことがあったが、未成年者飲酒・喫煙がそういった公正なスポーツマンシップを侮辱する行為と同列と言えるのかは疑問が残る。

 ただし、宮田選手のようなケースの場合、表では明言されないものの、色々な裏事情があったことが多い。法的にアウトではないものの、道義的にアウトな行為を繰り返していたといった噂が囁かれるケースもある。未成年者喫煙で干された有名人として加護亜依が存在するが、その背景には色々あったので擁護する人は少ない。

 もっとも、そういった裏事情に関して公の場で論じることは難しいし、不確定な証拠をもって論じるべきでもないだろう。事情を知る関係者の間では色々と思うところがあるのだろうが、現時点でそれを考える術はない。したがって記事の中では宮田選手は処分内容とされている未成年者飲酒・喫煙以外に、取り立てて人間性に疑問符が付くような要素は存在しないという仮定の下で議論を進めるものとする。

 筆者は宮田選手への処分が妥当であったかについては明言しない。筆者が注目したいのはどちらかと言うと宮田選手ではなく、宮田選手に対する日本人の捉え方だ。筆者は宮田選手を巡る世論の動きを見ていると、随分と社会は変わったと思わざるを得ない。日本社会はどうにも過剰にJ型の価値観に染まっているのではないかと(筆者のENTP的な価値観では)感じている。今回はそんな話である。

P型とJ型

 記事であまり明言することは無かったが、筆者は典型的なENTPであり、基本的に秩序とか規範というものは本能的に嫌いな性格である。もちろんルールが無いと困るのは承知だが、それは必要悪であって、無いに越したことはないと感じている。少なくとも、規範性に関してはかなり消極的な感情的立場を取ることが多い。

 P型とJ型は規律・規範に関する考え方が根本的に異なっているようだ。P型にとって規範は無いに越したことはなく、P型が規範を受け入れるのは相応の必然性があるときである。例えば「殺人は良くない」といった規範はP型であっても受け入れるだろう。なぜなら、その規範が無かった時の実害があまりにも明白だからである。ここにFP型であれば、共感性が加わることが多い。感情的にその行為が良いことだと感じられるかという要素が入るのである。例えば「弱いものいじめは良くない」という規範はFP型にとっては「被害者が可哀想」という感情によって受入可能となるものだ。

 一方、J型は規範それ自体に意味をもたせる傾向がある。P型が規範をすっ飛ばしてその規範の目標に目が向くのに対し、J型の場合は「規範は規範」という態度を取りがちである。P型にとっては悪法は守る価値がまったくないシステムバグなのだが、J型にとっては悪法であっても法である以上は守らなければならないもので、勝手な感情で破るのは良くないという訳である。

 この辺りの関係性は以前の記事でも綿密に考察を行った。この記事ではMBTIに関する用語は一切出していない。純粋に哲学的・倫理的考察と考えてほしい。

 一つだけ言えるのは、P型は実体的正義を重んじるのに対し、J型は実体的正義のみならず、手続き的正義にもこだわる傾向が強いことである。ここでは正義という言葉を使ったが、実際は「目標」とか「目的」といったほうが良いだろう。

ルール違反の人を批判する

 筆者はこの手のコンプラ案件に関して意見の分裂はPJ軸によって起きているのではないかと考えている。P型とJ型は規範に関する感覚がズレており、それが齟齬を生んでいるのではないかと考えている。

 さて、宮田選手に対する批判のいくつかを考えてみよう。厳密には宮田選手のみならず、この手のコンプラ事案には必ず発生する意見である。

 まず目立つのは「ルールを破った人間は許せないから、厳罰に処すべきである」という厳罰主義的意見だ。J型に特有のパターンである。攻撃性が表に出る時に、P型はルールを破る方法に向かうところがある。いわゆるアウトローを考えれば良いだろう。一方、J型の場合はどちらかというとルールを振りかざす方向に向かうことが多い。微罪であっても相手の穴を見つけて厳罰主義的な意見を主張するのである。

 注意すべきは規則に則ることと厳罰主義はなんの関係も無いということだ。大抵のルールのは比例原則的なものがあるから、何でもかんでも重罪にすれば良いというわけではない。厳罰主義的意見の背景には「ルールを破った人間を罰したい・攻撃したい」という感情が存在していることがほとんどである。むしろ実際に規則は「違反者を罰したい」という攻撃性が強いタイプのJ型から加害者を守っている時が多いのである。例えば殺人を犯したわけではない飯塚幸三さんを死刑にしろという意見は日本の法律上は認められない。筆者は攻撃性の強いタイプのJ型が法解釈に厳格なタイプと思わないのは、感情に基づいた過剰な厳罰主義が見え隠れするからである。

 次に見られるのは「真面目にルールを守っている人が損をする」というものである。これも結構J型が言いがちな主張である。確かに他のメンバーは真面目にルールと守っているのだから、特定のメンバーがルールを破っているのを許容したら他のメンバーに失礼だという考え方もあるだろう。

 P型の場合、多くはこうした主張にはあまり共感しないことが多い。P型の場合は規範それ自体に意識が向いていないからだ。P型にとっては規範は目的達成のためのやむを得ない手段であり、あくまでルールの目的がどこまで心に訴えかけるかで態度が決まる。ルールが存在したとしても、その意義が馬鹿げている場合、P型は「真面目に悪法を守っている人がバカ」とすら思っているだろう。P型に対してルールそれ自体を自己目的化したような論法はどうにも伝わらないのである。というか、ぶっちゃけ密告した何者かへの嫌悪感の方が勝るのではないか。

 穏健なJ型に見られる反応として「ルールが存在する以上は仕方ない」というものがある。宮田選手に対する処分には同情するものの、規範とそれに違反した事実が存在するのだから、処分はやむを得ないという見解である。選手に対して同情心を抱きながらも、規範意識という価値観を優先すべきという考え方である。P型も同様の意見を持つことは多いが、その理由はどちらかと言うと処分が確定した以上は仕方がないとか、世論の方向性に逆らっても得しないといった思考ではないかと思う。このような傾向性を持っている人間は穏健ではあるが、先述の過剰処罰に関しては沈黙する傾向が強い。

コンプラ化する日本社会

 どうにも日本社会は宮田選手への批判一色である。随分日本社会も変わったなという印象だ。ここ10年ほどでコンプラ等への意識が非常に強くなり、国民世論に強く浸透していることが伺わせる。どうにも先程挙げたようなJ型のような価値観を持っている人が増えているようだ。

 公の場では決して明言されることはないもの、明らかに日本社会は未成年者の飲酒や喫煙についてはおおらかだったはずだ。それは未成年者の飲酒や喫煙によって被害を受ける人が存在しないからである。

 例えば宮田選手が暴力行為をしていれば、被害者が可哀想とか宮田選手が許せないという感情が湧いてくるだろう。ドーピングであれば競技の公平性が破壊され、本来勝利するはずだった選手が報われなくなってしまう。みんなが木製のバットを使っているところを、1人だけ金属バットを使ってホームランを連発していたら公正とは言えないだろう。麻薬は被害者なき犯罪だが、麻薬中毒者はそれ自体が強い嫌悪感を持って見られている。一方、未成年者の飲酒・喫煙はこれらの規範とは重要性が大きく異なる。どちらかと言うと、不倫に近いネタではないかと思う。

 コンプラ社会の特徴は、ルールによって実現したい価値ではなく、ルールそのものへの注目度の方が高まっていることである。「〇〇だからいけない」ではなく、「いけないからいけない」という感覚である。これは極めてJ型的な価値観ではないかと思う。「日本代表がルールを守るのはおかしい」とか、「他の選手に不公平」という主張は、その先のどうにも実現したい価値が見えて来ないのだ。日本体操界にとって大損害であってもルールの遵守を優先すべきという意見もあるが、なぜそうすべきかが主張には存在していないことが多い。今回は未成年者の飲酒・喫煙という刑事犯罪とは言えない事案だったため、より一層この点は際立っているだろう。

 少し前であればもっと賛否両論が分かれたかもしれない。しかし、日本の世論はかなりJ側に傾倒していて、この問題に関する優劣は明らかである。一億総コンプラ化社会の到来である。この傾向が強まっていくと、スピード違反や信号無視で五輪出場の夢が絶たれる選手が出てくるだろう。

 こうした動きは職場にも訪れている。最近の職場では優秀な人の条件として「ルールを守る人」という項目が一番に来ているという。多少ルールを無視しても売上を拡大させたり、新製品を実現したりという昭和のカルチャーは衰退傾向である。会社への貢献という「目的」よりも、社内規則の遵守という「手段」の方が優位に立ってしまった時代といえるかもしれない。

 こういった社会で優位に立つのはJ型である。彼らは規範を規範として守るのが得意だからだ。P型にとっては少々生きづらい社会になっているのかもしれない。コンプラの強化によってがんじがらめになり、社内恋愛のような文化は退潮傾向にある。何でもルール化する風潮によって、ブルシット・ジョブは増加の一途を辿っている。P型にとって仕事がつまらなくなっているのだ。社会に広まる静かな退職やワークライフバランスの拡充は実はこうした背景事情も影響している可能性もある。昭和のサラリーマンは長時間労働で家庭をないがしろにしていたかもしれないが、その分仕事にはやりがいと情熱を持っていたのかもしれない。ただこうした話を裏とりするのは難しいだろう。

J型社会で気をつけること

 筆者がMBTIの人口比の話で必ず議論になるのがPJ軸だ。筆者はP型が7割位であるという素朴な認識を持っていたのだが、どうにもPJが半分半分であるという主張をする人の方が多い。これは筆者が中学生の時を基準点に人間考察を行っているからかもしれない。中学校という環境はようやく自我が芽生えてくる時期であると同時に、その後の進路選択ほどバイアスがかかりにくいので、MBTI考察の「原点」として理解しやすいからだ。PJが半分半分というのは、もしかしたら大人になって性格タイプが多少は動くことの現れかもしれないと思う。ここに関しては今度議論してみたいと思う。

 さて、J型の方が優位に立った社会はどのような感じとなるか。P型中心の環境と違ってルールを守る人が多いので、露骨な違法行為はなくなるだろう。公の場で殴ったりと言った行為は現に慎まなければならない。

 だからといって、J型が優位になった環境が平和とは限らない。どちらかというと、表面に見えにくくなるという表現の方が正しい。P型とJ型で攻撃性の水準はあまり変わらない用に見えるからだ。J型が行う対人攻撃のパターンとしてあるのが「コンプラアタック」とも言えるものだ。相手の規範上の落ち度を探し、そこを大げさに騒ぎ立て、相手を失脚させるのである。P型優位の環境では表向きは口には出さないものの、規範や法規に関してそこまでコミットしている人間が少ないため、道徳性を損なわなければかばってくる事が多い。ところがJ型優位の環境の場合は「とはいえルール違反は悪いよね」という結論に落ち着いてしまい、周囲がそこまでかばってくれないのである。

 今回の宮田選手の場合も報道を見る限りは誰かの密告による不祥事の発覚のようだ。中学校のようなP型が優位の環境であれば、密告によって人生最大のエースが晴れ舞台を奪われたら、きっと密告者は憎悪の対象となるに違いない。しかし、J型社会では若干の同情はあったとしても、基本は処分の方が正しいという判断がマジョリティとなる。

 というわけで、J型優位の社会においては殴られたり物を取られたりというP型の脅威よりも、「コンプラアタック」の方を気をつけるべきなのだ。

まとめ

 今回は趣向を変えてP型とJ型について考えてみた。法規範に関する考え方は人それぞれなのだが、興味深いのは「規範意識」という概念が明確な違いを生んでおきながら、世間はそれに無自覚なことである。P型は規範それ自体にあまり意味を感じず、基本的に無い方が良いと考えている。P型が規範の価値を認めるのは明確に害があるとか、正義感の延長線上といった何らかの目的があるケースである。一方でJ型は規範それ自体に意味を見出す事が多く、悪法であっても法として存在している限りは尊重すべきと考えているフシがある。不都合があったとしても、あくまで適正な手続きを取った上で目的を達成すべきというスタンスである。

 コンプラ意識の向上で実社会ではJ型の風潮が強くなっている。となると、不良のカツアゲ等の不正行為よりも「コンプラアタック」やロジハラの方が害を生むようになるかもしれない。宮田選手に関する一連の論争を見ていると、日本社会の世論はかなりJ型に傾斜し始めているようである。

 筆者はENTPであり、規則とかルールと言ったものが本能レベルで嫌いなのだが、法学部の勉強に興味が沸かなかったのはこれが原因のような気もする。法の解釈や運用に高度にアカデミックな要素があるのは認めるが、やはり本質的に法規範を嫌っているため、どうにも頭に入ってこないのである。こうしたフラストレーションの影響か、北朝鮮やソマリアのような無法国家の方がよほど興味の対象だったし、時たま投稿している地政学記事はこの時の知識を動員して書いている。筆者の周囲だけかもしれないが、法律の道で大成したNP型は比較的少ない気がする。

 カントの著作を読んだこともあるが、やはり規範意識のところで引っかかり、あまり共感できなかった。J型の友人に聞いてみたところ、当たり前のことを言っているだけとのことだ。カント自身も規範意識に相当する感情に関しては、薄っすらと把握しつつも曖昧な説明しかしていなかった(あくまで筆者が読んで理解できた範囲内なので、断言はできないが)。海外サイトでカントはINTPとされているが、生前のエピソードを考えてもJ型としか思えない。

 PJ軸に関する話は個人的にも色々思うところがあるので、いつか記事にしてみたいと思う。


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