私が「東大までの人」となった原因を考える

 しばしばメディアで取り上げられる概念に「東大までの人」というものがある。東大は出たものの、そこで人生の黄金期が終わっていしまい、低空飛行の人生を余儀なくされてしまう人のことだ。口には出さないものの、多くの東大出身者は「東大までの人」となることを恐れているのではないか。こうした危機感に駆られて東大出身者は「東大からの人」を目指して社会的成功へと走っていく。その中には大成功を修める人もいれば、失敗に終わる人もいる。

 筆者は典型的な「東大までの人」である。少なくとも世間一般に見てあまり魅力的な人生を送っているとは言えないと思う。優秀な東大卒から見れば軽蔑の対象だろうし、実際にそういう態度を取られたこともある。就職してからというもの、ロクな目に遭っていない。どうしてそうなったのか、自戒も込めて、振り返ってみたいと思う。

東大までの人となりがちな要因

 参考記事として、いつものように東大卒の人生を考える会さんの記事を引用したいと思う。

 東大までの人となりがちな要因は以下のようなものとのことだ。

1.東大合格が人生の至上命題になってしまっている(いた)
2.発達障害傾向がある(特にASD)
3.公立中学で内申点が芳しくなかった
4.高校まで受験勉強以外の勉強をしていない
5.60点至上主義者
6.体力がない
7.王道系のサークル・ゼミ・学部出身ではない
8.学者タイプ
9.就職活動を頑張らない
10.コミュニケーション能力が低い

1.東大合格が人生の至上命題になってしまっている
これは間違いない。筆者は幼稚園の時点で既に東大に行きたい旨のことを言っていたらしい。東大に行けば絵本に出てくるような天才博士になれると勘違いしていたからだ。(当時の筆者には、どうしていい歳した男性の肩書きが教授ではなく「博士」なのかという判断力はなかった)

2.発達障害傾向がある 
これに関してもなんとも言えない。ASD傾向は全くない。ただ、恐らく言語性IQと動作性IQの乖離は相当なものだと思う。学校の勉強や就活は言語性IQが猛威を振るうのに対し、仕事では動作性IQばかりが求められるため、天から地に落ちたようだった。はっきり言って半身不随になった気分である。

3.公立中学で内申点が芳しくなかった
中学は公立ではなかったので何とも言えない。内申点は学力で荒稼ぎしたが、公立高校は受験していない。これに関しては学校にもよるので運ゲーである。

4.高校まで受験勉強以外の勉強をしていない
どちらかというと受験対策はしなかった方だと思う。受験に関係ない余計な知識ばかりを集めていた。推薦入試でも東大に合格していたかもしれない。知識教養もかなりある方だと思う。

5.60点至上主義者
これは間違いない。筆者は難問になればなるほど解けるタイプだった。駿台模試とか科学五輪ではそこそこの点数だったが、センター試験は今ひとつだった。いちばん酷かったのは公立高校向けの模試を受けた時だっただろうか。

6.体力がない
 体力は間違いなく乏しい。大学まではテスト系は地頭で乗りきっていたので体力がなくても問題なかったが、社会人になると通用しなくなった。特に休憩やプチ睡眠といったオリジナルの疲労回復法が禁止されたのは痛かった。筆者は慢性的に疲れている状態であり、これが鬱状態に繋がっている。体力がないと疲れきって私生活でも何も出来ない上に仕事でも評価が低いという良くない状態となる。

7.王道系のサークル・ゼミ・学部出身ではない
一応王道系のサークルに入っていたし、そこそこ活動もしていたので、当てはまらないと思う。

8.学者タイプ
これは間違いなく当てはまる。筆者は未だに学者タイプと言われることが多い。ただ、それに応じた進路選択はしなかったので、あまり活かせなかった。

9.就職活動を頑張らない
ここに関しては頑張ったとも言えるし、頑張らなかったとも言える。筆者は官庁志望だったので、官庁の就活イベントにはかなり熱心に参加していた。一方で民間企業のインターンや説明会にはほぼ参加しなかった。おかげで民間就活に関しては聞いた事のある会社を適当にエントリーしただけで、よく分からないまま就活を決めてしまった。

10.コミュニケーション能力が低い
筆者はコミュ障という自己認識だったが、社会に出ると意外とそうでも無いらしいことに気がついた。陽キャや体育会系の好む下ネタや弄りといったコミュニケーションはそこまで社会で求められないからだ。むしろ話題の多さや人懐っこさが肯定的に捉えられることも多かった。

 各項目に関して考えてみたが、筆者に関しては当てはまる項目もあれば当てはまらない項目もあり、トータルだと「普通」ということになるのではないか。今回はもっと個人的に致命傷となった要因について考えてみたいと思う。自分語りになってしまうが、ご容赦願いたい。もし未来ある若い人がいるなら、筆者のような人間にならないように、反面教師にしてほしい。

1.東大卒の多くは社会的地位をキープできない

 いきなり責任転嫁のような話になって恐縮なのだが、そもそも「東大までの人」はかなり多いという構造的要因がある。

 日本人の東大信仰は非常に強く、それだけで東大王のような番組が成立するほどだ。東大を出ていると、やはり世間の関心を引く上で結構な強みになる。それほど日本人は東大に対して期待感を持っているということだ。

 東大卒の学力は非常に高い。東大に入るには同世代で上位0.3%の学力がないとダメだし、他の大学と比べて上限が存在しないため、平均値は更に高い。更に大学受験はこの国で最もレッドオーシャンとなっている競争だ。普通の人が実現できる18歳時点での達成度としては最高ランクといっても過言ではない。

 その反面、東大卒の多くは東大合格に匹敵する社会的地位を修めることは難しい。キャリア官僚になったり、研究者としてポストを得たり、トップティアの外銀に進むものであれば東大に匹敵する社会的威信があるかもしれない。しかし、中間層の東大卒は普通のサラリーマンになることが多く、早慶やMARCHとそこまで変わらないキャリアを歩む。医学部医学科には逆転されることが多い。更に下位層の場合は就職活動がうまく行かない。筆者の周囲を見ても、就職活動に失敗して微妙な会社に進んだものや、最低賃金でコールセンター業務をやっているものもいる。18歳時点で上位0.3%に入っていても、その後のキャリアで上位0.3%に入っていられる者は少ないのではないかと思われる。

 筆者も昔の友人と会った時にサラリーマンになったと言ったら若干がっかりされたことがある。てっきり研究者や官僚になっているものだと思ったらしい。筆者は東大卒の中では中間層の進路だったのだが、もっと上をイメージされていたらしい。世間のイメージする東大像とは乖離があるのだ。

2.東大への執着が強すぎる

 卒業して何年も経っているのに、未だに筆者は東大の話を頻繁にしている。筆者は幼稚園の時から東大に憧れていたので、東大に入った時は本当に嬉しかった。卒業したからと言って辞めることはないし、今後も続けるだろう。三つ子の魂百までである。

 こうした態度は世間ではそこまで良しとされない。多くの人間は大学受験にそこまで多くのエネルギーは掛けていないし、東大卒ほど受験で達成感を味わったわけではない。うまく行かなかったとか、思い出したくないという人も多いだろう。したがって、学歴の話はあまり社会人という場では好まれないのである。「学歴の話で盛り上がる」というのは東大卒の内輪カルチャーという側面があるだろう。

 筆者のような精神性は「東大までの人」を生み出す大きな要因となりうる。筆者は大学以降のプランが無かったわけではないのだが、やはり詰めが甘かったことは間違いない。筆者は東大に匹敵する熱情をキャリアに関して持つことはできなかった。民法の勉強よりも大学への数学の方がどう考えても面白かったし、東大の文化祭に行っていたようなワクワク感で企業のインターン等に参加することはなかった。思春期の時に東大に対して抱いていた強烈な渇望を、仕事や出世に対して向けることはできなかった。東大に入ったことである意味満たされてしまい、キャリアや金銭に対する貪欲さが至らなかったのだ。

3.「ジョブ」を見つけられなかった

 前項の要因とも関わってくるのだが、筆者は大学時代に自分が本気で取り組みたいと思う「ジョブ」を見つけることができなかった。これは社会に出てからかなりの致命傷となっている。

 しばしば学歴に執着する人を理系の人が批判することがある。というか、理系で学部の学歴に執着する人は少ない。理由の一つは大学に入ってから学ぶことが沢山あるからだろう。そして専門を生かした就職をするので、「学び」に関するアイデンティティは自分の専門となる。受験に関する向上心が専門に関する向上心となり、変化していくのである。

 これは理系に限らず、自分がやりたいと思う「ジョブ」に出会った人間はみんなそうだと思う。弁護士になった者は弁護士としての腕前で評価されたいと思うし、エンジニアになった者はもっと専門の技能や知識を深めたいと思うだろう。彼らを学部入試の成績で評価することは、それ以降の学びを矮小化する無礼な行為にも捉えられかねないだろう。「ジョブ」に出会った者は学歴に囚われず、各々の道で新たなアイデンティティを獲得して活躍している印象である。

 社会人として見ると、仕事の軸が「ジョブ」にある人はやっぱり強い。出世とか待遇ではなく、仕事自体に興味とプライドがあるため、いざとなった時にも打たれ強いだろう。「プロ意識」というやつである。その分厳しい人が多いが、学ぶべきものも多い。

 筆者はこうした「ジョブ」を見つけることができなかった。ここに関しては明確に失敗だったと思う。ただし、「ジョブ」を見つけられない者の方が多いし、彼らは普通のメンバーシップ型の新卒就活で一流企業に進んでいくため、大きな問題にならなかった。筆者も流されて同じ道を辿った。

 筆者のようにこだわりが強い「学者タイプ」の場合、メンバーシップ型のサラリーマン社会では職業的なアイデンティティを見つけられないことが多い。愛社精神やトーナメント型の出世競争に積極的に参加しているものは聞いたことがない。となると、アイデンティティの中核がいつまでも「東大」のままになってしまう。筆者はサラリーマンとしての自分を他人に誇れるとは思わない。別に好きでやっている訳では無いのだ。東大卒JTC余生論も似たような背景があるのではないか。

4.ビジネスに興味がない

 これは人によって真っ二つに分かれるところだろう。学歴社会と同様に、資本主義社会というのは熾烈な競争社会である。エリート街道を突っ走る東大卒の中には学歴競争をビジネス競争へと切り替えている者が多い。今度はビジネスの世界で勝利者となろうというわけである。偏差値至上主義から拝金主義への移行である。

 実利的で拝金主義的なタイプは東大にも多いし、他の大学にも多いだろう。「ジョブ」を見つけるに越したことはないが、そうでなくてもこの手のタイプは比較的社会に出てからの予後が良い。会社というのはビジネスを行う場所だから、金への興味や執着はプラスになるし、扱う案件にも興味を持ちやすいだろう。金銭的な報酬に対するやる気も強い。親戚を見ていても、ビジネス社会・サラリーマン社会で成功するタイプは拝金主義的でミーハーなタイプが多かった。

 筆者はそれなりに競争心があった方なのだが、どうにもビジネス的な競争社会には馴染めないままである。外銀や外コンが最近は持て囃されているが、筆者はこうした進路に全く興味が持てなかった。持ったとしても、それは学歴主義の延長線上の何かだと思う。外資系をはじめとしたビジネスの最前線で戦っている人たちの話を聞いても、嬉しいとも悔しいとも思わず、ただただ場違いの感覚になるだけである。

 ビジネスに強い興味の無い人間がそれなりに安定と職業的成功を修められる仕事は学者・医師・エンジニアといった専門職だが、これらは皆ジョブ型だ。筆者は先述の通り「ジョブ」の獲得に失敗したので、普通のサラリーマンとして生きていくことになる。メーカーやインフラを考えても、電車を運転したり、新技術を開発したりするのは専門職の仕事である。文系総合職は下請けと折衝したり、売上を計算したりというのがメインであって、やはりビジネス的な頭の方向性は必須だと思う。「学者タイプ」の東大卒の予後が悪い最大の要因はビジネスへのセンスや興味の欠如と思われる。

5.人間関係が学生時代から更新されていない

 これは筆者だけではないだろうし、必ずしも悪いことではないかもしれない。社会人になるとどうしても大学以前のような親しい友人は出来にくくなる。筆者の初投稿の記事でもこれは書いた。

 職場の中高年などを見てもあまり人間関係は広がっているように思えないし、ぶっちゃけ交友関係は昔のものをいかにキープするかに思える。実際、職場の同僚等などと話すよりも東大時代の友人と話していたほうが明らかに気を遣わなくて済むし、奇抜な遊びもしやすい。こういった事情があるので、筆者の人間関係はほぼ学生時代の交友関係に閉じているといっても過言ではない。

 というわけで、社会人になっても人間関係が変わっておらず、東大時代に意識が向きがちなのである。オリ合宿からの長い付き合いの者もいる。

6.社会に出てからロクなことがなかった

 今まで上げた全部の要因と関わってくるのだが、筆者は基本的に就職してからというもの、ロクな目に遭っていない。1で述べたように普通のサラリーマンになってしまったので、東大時代と比べると社会的な威信は間違いなく下がっているだろう。その上筆者は仕事に興味も持てなければ優秀でも無いので、仕事は基本的に苦しみの元である。筆者が長所だと思っていたものは全て短所だったのである。

 もちろん私生活に活路を見出すという手もあるだろう。しかし、サラリーマンをやっていると私生活に取れる時間は少なくなるし、働いていると本が読めなくなるなんて話もある。交友関係も広がらない。その上、料理やサウナなど、社会人が手を出しがちな楽しみに筆者はどうにも興味が持てなかったので、「面白い」と感じることは減少の一途である。これは筆者に限らず、多くの人はそうだと思うが。

 学生時代であれば「未来」に期待して問題を先送りにするという選択肢があっただろう。現在の苦難は未来へのジャンプ台であるというわけである。しかし、もはや社会的なポジションが固まってしまうと、未来や将来といった概念は薄らいでしまう。

 現在は苦しい。未来も期待できない。となると、心の拠り所になるのは過去だ。「あの頃は良かったなあ」と回顧すると幸福感が湧いてくるし、自尊心も回復できるだろう。婚約者と出会ってことはプラスかもしれないが、これも結局は学生時代の交友関係の派生なので、過去の資産を運用している感覚である。

   幸いにして婚約者も似たような人種なので、筆者にサピックスや鉄緑会に通っていた時の話を心から楽しそうに話してくれる。同じ挫折を抱える人間にしかわからない気持ちがある。「東大までの人」が下り坂の人生の中で見つけ出した、ただ一つの安らぎなのかもしれない。

まとめ

 以上が筆者が「東大までの人」となった要因である。もし未来ある若者がこれを読んでいるなら、筆者の失敗を参考にして賢く生きて行ってほしい。

 筆者が挙げた要因は意外に多くの人間に当てはまるのではないかと思う。東大卒のうち、半分は突き抜けて優秀か、どこでも生きていけるほど器用な人なので、心配はないだろう。しかし、もう半分は「東大までの人」となるリスクをはらんでいる。

 特に注意する点は東大がその難易度と社会的な期待感の大きさとは裏腹に、卒業後のキャリアが「普通」であるということだ。この期待値とのギャップにやられてしまう人が多いのではないかと思われる。しかし、東大生の多くは東大内部の激しい内部競争に目を奪われ、この本質に気が付かないままだ。中間層の東大卒が凡庸なキャリアを辿るのは、彼らが天才との競争に負けたからではなく、元々その程度の期待値だったからなのだ。

 社会に出てから満足感の高い職業人生を送るには、自分が頑張りたいと思える「ジョブ」を見つけるのが一番確実だろう。日本社会はまだまだ新卒主義が強いので、可能な限り大学時代に見つけるべきである。特にこだわりが強いタイプや内向的なタイプの場合、一般的な文系総合職になってもうまく行かない可能性が高いため、なおさら緊急性が高い。

 筆者は大学時代、自分の「ジョブ」を見つけることができず、流されるままに就職してしまった。その結果、自分が誇れるようなアイデンティティが学歴だけという状態になってしまっている。これは社会人として健全な状態ではない。同じ境遇の人間ならわかり会えるかもしれないが、社会の殆どは東大卒ではないし、エリートコースを歩む東大卒からは軽蔑の対象だろうと思う。

 過去に執着せずに生きるのは難しい。筆者は病気や事故で障害を負った人ことがある。過去と未来の折り合いに苦しんでいる人たちだ。彼らの苦しみは筆者の比ではないに違いない。それでもヒントになる何かはあるはずだ。解決の鍵となるのは一生懸命に打ち込める眼の前の何かだと思う。「ジョブ」はその最有力候補となりうるだろう。家庭を形成するのも良い。子供は未来の象徴であり、失われた自分の可能性に変わる何かになりうるからだ。

 それでも、一つでも過去に誇れるものがあるというのも悪くはないかもしれない。何一つとして誇れるものが無い人の方が多数派だからだ。人生の満足感は人それぞれだし、ピークが遅くに来る人もいれば早くに来る人だっているだろう。そもそも人生は20歳前後がいちばん楽しいものであり、その後はもう下り坂である。もし若い人がこれを読んでいるのなら、後悔のないように全力で輝いて欲しい。


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