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悪縁断ちと筋肉ダルマ~2020.11.14都営三田線板橋散歩

2020年11月14日

電車を主な交通手段として生活していると、同じ県内・市内でもそこは路線が違うから行ったことないという場所があったりする。
板橋区では、主に東武東上線(と東京メトロ)沿線は土地勘があるが、都営三田線沿線はほぼ訪れたことがない。三田線の西台駅は学生時代に部活の試合で2、3度使った記憶はあるが、街の様子とかもほぼ覚えてない。

三田線沿線には、板橋区の地名の由来になった中山道板橋宿といった歴史がある場所や1万戸を超す巨大団地高島平団地など様々な気になるスポットがあったので訪れることにした。

東上線と三田線が最も近づく場所は、1kmも離れてなく、東上線大山駅辺りに住んでいれば、三田線板橋区役所前駅も徒歩圏内と言うことを知った。
最初の目的地に向かうため、東上線中板橋駅に降り立つ。当初は大山駅から歩こうかと思っていたが、中板橋駅で通過待ちで停車するというアナウンスを聞いて、待つのが嫌だったので下車した。

初めて降りる駅で、駅降りてすぐはなんもない場所と思ったが、線路沿いを少し進むと線路に直交して商店街が現れる。

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商店街を抜けると石神井川に突き当たる。少しずつだが、木々も色づき始めていた。コロナであまり外出せずに過ごしていたが、もう年の瀬も近づいてきたのかと思うと、2020年とは何だったのかと思う。

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川沿いに進むと突然川が枝分かれしているかのような緑地が現れる。川のような細長い池があり、釣り堀になっているようだ。

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古い地図を見ると、1960年代までは現在の池部分が、石神井川の流路になっている。1970年代には、現在のまっすぐな流路が整備されているようだが、まだこの頃は池も川とつながっていて枝分かれしている。そして1980年代に池として独立したようだ。現在でも地下に取水口があるとは思うが、1970年代に一気に池にするのでなく、段階的に本流→支流→池となっているのが面白い。

釣り堀公園を通り過ぎると、首都高(下道は中山道)沿いに神社が現れる。氷川町氷川神社である。周りを高速道路とマンションに囲まれているが、立派な参道だ。
境内には板橋富士がある。山頂には立派な社殿もあり、なかなか大規模な富士塚だなぁと思ったら、その脇にある小さな祠が浅間神社だった。富士塚の反対側は中山道の道路拡張時に削られたようで、がっちりコンクリートで固められていた。

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中山道を渡り北上すると、新板橋という橋がある。親柱と欄干が石造りになっていて立派な橋だ。

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そこから、石神井川を下流方向にに進むと、旧道の中山道と交差する。そこに架かる橋が、板橋区の由来にもなっている「板橋」である。江戸時代は、中山道の最初の宿場街、板橋宿としてと栄えたそうで、現在でも旧道沿いには古そうな建物がいくつかは残っていた。
そんな往時を偲んでか、板橋には日本橋からの距離が示された柱があったり、木製っぽいデザインを取り入れたりと、少しではあるが風情がある。

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そんなデザインよりも気になったのが、石神井川と並行するように存在する少し掘り下がっている公園だ。ここもきっと、昔の石神井川の流路なんだろうか。そうなるとこの公園の上にかかった板橋のオマケみたいな橋こそが江戸時代に板橋がかかっていた位置なんだろうか?いや、この河川跡だって、明治以降の流路で、江戸時代は違う位置だったかもしれない。
河川跡は、色んな想像、妄想が捗るから好きだ。

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橋を渡り進んでいくと、物見櫓を模したような倉庫がある広場があった。宿場町の雰囲気をウリにしたいのかもしれないけど、なんとも中途半端な存在だ。
それよりも、広場に隣接した三叉路に建っている交番がなかなか渋いデザインだ。写真を撮っていたら、お巡りさんが出てきたのでそそくさと立ち去ったが、じっくり見ておけばよかったと後悔。

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近くには「いたばしボローニャ子ども絵本館」という大層な名前の施設がある。児童書専門の見本市「ボローニャ児童図書展」事務局から寄贈された絵本が主な蔵書という由来らしいが、絵本館があるのは廃校となった板橋第三小学校の校舎の一角。校舎自体も戦前の古い建物とかではなく、戦後(昭和50年代くらい?)に建てられた、普通の校舎である。とは言え自分の小学校もそんな感じの建物だったので、ノスタルジーを多少は感じる。コロナの時勢を考えて、子どもが集まる場所に男一人突入するのもなと思って絵本館に入るのは遠慮した。

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板橋宿で最も有名なスポットは、縁切榎である。縁第六天神の御神木であるが、ありとあらゆる悪縁を切れると江戸時代から信仰を集めるパワースポットだ。街の一角にある小さな社で、榎の木もそこまで大きくないので、知らずに通ったら何でもない神社である。

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ただ、縁切榎は小さい神社ながら、圧倒的に絵馬の数が多い。それらの絵馬には個人情報保護シールが貼られていて、どのような悪縁断ちを願っているか他人には分からないようになっている。
そして何よりも、その場所が特異だと思わせるのは、そこにいる人々から発せられる気による。狭い境内に女性が3人ほど、あとから男性や夫婦とひっきりなしに人が訪れる。書いている内容見られまいと周りを警戒しながら書く人もいて異様な雰囲気を感じる。
マイナスイオン出てますといったような自然は、景観として楽しめるが、それがパワースポットだと感じたことはない。
しかし、ここは違った。人から発せられるエネルギーがビシビシと伝わってきて、物見遊山で訪れた者を追い出すようなパワーを感じた。
数枚ほど写真を撮ったが、長居する気は起きなかった。
ちなみに、向かいにある蕎麦屋で絵馬を売っているようで、誰でも悪縁断ちをすることができる。

板橋本町駅を通り過ぎ本蓮沼駅まで、中山道づたいに進む。本蓮沼駅ほど近くにあるラーメン屋で昼飯にする。途中気になるラーメン屋もあったし、近くに食べログ評価の高いラーメン屋もあった。
だが、筋肉ダルマ家という、気になる店名に惹かれて入店。入り口の食券機には、プロテイン無料の文字も。家系ラーメンはライス無料の店が多いが、プロテインも無料なのは、ここくらいだろう。

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もちろんプロテインを頼むこともなく、ラーメンを食べる。
ライスは店内に置いてある炊飯器から自分でよそうスタイル。卓上調味料が豊富で、ゴマもすりゴマといりゴマ両方ある。すりゴマ派なので、いりゴマしかない店にはガッカリしちゃうので、どっちもあるのは嬉しい。ご飯とラーメンをかっ込み散歩を再開する。

引き続き中山道を進み、お隣の志村坂上駅付近にたどり着く。ここには都内に2箇所しか残っていない一里塚が残されている。志村一里塚だ。
そもそも一里塚とは、江戸時代に日本橋を起点とひた主要な街道に一里ごとに設置された目印のようなものだ。こんもりと盛られた土に、榎などの木が植えられる。多くの一里塚が、明治以降に道路の拡幅により姿を消した。しかし、この一里塚は江戸時代の中山道沿いギリギリではなく、道から少し離れて設置されていたため、現在まで拡幅工事の影響を受けずに、道の両側に残されている。それだけ貴重ではあるが、さほど知名度が高くないのはもったいないスポットである。

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このまま中山道を進むと荒川があり、そこにかかる戸田橋を越えると埼玉県となる。現行の橋は1978年竣工の4代目らしいが、1932年に完成した3代目戸田橋の東京側の親柱が近くの小豆沢公園に残されている。
親柱は野球グラウンドの入口ゲート的に佇んでいた。運悪く少年野球の審判たちが、その周りで休憩していたため、うまく写真を撮れなかった。石造りで威厳のあるカッコいい柱である。
埼玉県側の親柱も戸田市内に残されているようなので今度訪れてみたい。

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志村坂上駅に戻り、三田線に乗り込む高島平団地群を見るために数駅スキップだ。1つ前の西台駅は車両基地と団地がドッキングした見ごたえのある駅だったらしいがその情報を知らずに通過して、高島平駅に降りる。駅を出てそのままデッキを渡ると、目の前に巨大団地が現れる。建てられた当時は高い建物が少なかったため、飛び降り自殺も多く、自殺の名所なんて不名誉な呼ばれ方もしたらしい。しかし現在では廊下にはフェンスが張られ飛び降りることは難しそうだ。

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古いながらも団地低層部に連なる商店は賑わっていた。西高島平駅方面に向かって遊歩道も整備されており歩きやすい。だが、程なくして団地群から戸建て住宅街になってしまうので、風景としては面白さが半減する。

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西高島平駅は三田線の終点駅で、そこから少し進むと埼玉県である。23区の北西の果て。そんな立地ゆえ駅の北側は巨大な物流ターミナルとなっている。西高島平駅は2018年に家賃相場が一番安い駅となるなど、果て感が漂っている。
駅から十数メートル程、続く線路もどこに繋がるわけでもなく突然途切れている。当初は和光市駅に乗り入れる計画もあったようだが、東武鉄道がより乗客が見込める有楽町線との接続を選んだため頓挫した。そんな残念な駅でもある。

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ここで今日の散歩を終えるが、住まいのある和光市まで電車は繋がっていない。しかし、今の時代シェアサイクルが発達しているので問題ない。駅近くのポートで借りて、家の近くのポートまで最低料金の15分以内70円で帰り着くことが出来た。
和光市に住んでいる理由は、有楽町線で座って出社できることだから、仮に西高島平駅から延伸してたら、和光市に住むこともなかったんだろうなと思った。

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