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オランダアートひとり旅#06.レンブラントの家~息子ティトゥスが帰って来た~

 アムステルダム国立美術館の後は、レンブラントの家にやって来ました。

 レンブラントの家(Museum Het Rembrandthuis)は、画家レンブラントが1639年から19年間過ごした豪邸で、現在は博物館となっています。ひとりの画家としての人生、または銅版画家としての活動を詳しく知りたい方には興味深い場所だと思います。

 レンブラントの家は5か月弱の改修を経て、今年3月に再オープンしました。右側にあるブラウン色の古い建物がレンブラントの家で、垂れ幕が掛かっている新館は企画展などを開催するスペースとなっています。

 入り口は新館にあります。ここでチケットを購入し、無料の音声ガイドをクローク・ルーム前で受け取ります。ガイドなしだと説明がほとんどないため、必ず使用されるのをおすすめします。

 また、旧館の階段は非常に狭く一方通行になっています。下の階から順に観て行くようになっていますが、上の階に上がると下には戻れないため、ご注意ください。

レンブラントの家と常設展

 レンブラントの家は5階建てで、彼が住んでいた当時の様子をそのままに再現しています。

◆生活空間(キッチン、客間、寝室)

 まずは1階のキッチンから始まり、壁一面に絵画が飾られた客間と寝室へ続きます。ヨーロッパの歴史あるあるですが、昔のベッドの小ささには毎回驚かされます。これは上半身を起こした状態で寝ていたからだそうですが、レンブラントの家のベッドもご多分には漏れず、非常に短かったです。しかも、箱型のベッドで壁側に置かれていたので、まるで押入れの中で寝ているかのよう。ドラえもんを思い出しました。

◆コレクションルーム

 オランダ黄金時代に世界中から集まった彫刻や貝殻、剥製など当時としては珍しく高価だっただろうコレクションを保管する部屋もありました。好奇心旺盛で浪費癖があったレンブラント。借金をしてでも買い揃えていたそうです。

◆アトリエと絵画教室

 期待していたアトリエもありました。ほかの部屋はどれも狭く暗い印象でしたが、アトリエは広々として明るかったです。レンブラントの最高傑作《夜警》は、ここで生まれたとか。ほかにも、弟子たちを指導していた部屋がありました。

◆銅版画

 銅版画家としても類まれなる才能を発揮したレンブラントは、主にエッチングの技法を用いて約300点もの版画を生み出しています。レンブラントの家では、これらの作業工程や作品を見ることができます。

 展示の様子は、以下の動画をご覧ください。

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企画展「ティトゥスが我が家に帰って来た」

 この日は、企画展「ティトゥスが我が家に帰って来た(Titus is weer thuis)」を開催していました。 

 ティトゥスは、レンブラントと最初の妻・サスキアとの間に生まれた息子です。

 2人は1634年に結婚し、35年には長男・ロンベルトゥス、38年には長女・コルネリア、40年には次女・コルネリアをもうけますが、3人とも生後間もなく亡くなってしまいます。その後、41年に生まれたのが次男・ティトゥスで、彼だけ成人を迎えることができました。

レンブラント《机の前のティトゥス》1655年

 唯一生き残ったティトゥスをレンブラントは溺愛しました。彼をモデルにした作品もいくつか残していて、《机の前のティトゥス》は14歳頃のティトゥスを描いた肖像画です。

 幼顔の少年が机に置かれた書類の上で、もの想いに耽るように遠くを見つめています。この絵は、照明、三角形の構図、粗くも表現主義的な筆使いが特徴で、知らず知らずのうちに惹き込まれていく引力と、見る側の時間をも止めてしまうような魅力を感じました。

 この家で誕生し、父・レンブラントと共に17歳で家を去ったティトゥス。《机の前のティトゥス》として戻って来た彼は、一体どんな想いだったのでしょう。喜んでいるといいなあ・・・。

《修道士としてのティトゥス》1660年
アムステルダム国立美術館蔵

 ティトゥスをモデルに描いた絵は、アムステルダム国立美術館でも観ることができます。

 《修道士としてのティトゥス》を描き上げたときのティトゥスは、19歳。絵画を通してモデルの成長過程が見られるのも、西洋画の面白さですね。

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レンブラントの家の前の景観

 レンブラントは裕福なサスキアと結婚したことで、多額の持参金、アムステルダムの市民権(もともとはライデン出身)、富裕者層とのコネクションを手に入れます。

 画家としての名声と富の両方を得たレンブラント。アムステルダム中心街にあるこの豪邸をローンで購入したのは、1639年のことでした。ここで数々の名作を生み出しますが、《夜警》を描き上げた1642年、最愛の妻を亡くします。ティトゥスはまだ1歳でした。

 この頃から、レンブラントの人生は転落します。

 《夜警》の評判が悪かったこと、また肖像画の依頼主と自身が求める画風に乖離が生じたことで、画家としての人気に陰りが出始めました。それ以外にも、愛人(ティトゥスの乳母)ヘールチェとの裁判沙汰、オランダの不景気、浪費による借金、ついには破産宣告。1658年には家が競売に掛けられ、貧民街へ引っ越すこととなりました。

 それでもレンブラントは、ティトゥスと後妻・ヘンドリッキェに支えられて絵を描き続けます。しかし1663年にヘンドリッキェ、68年にはティトゥスを亡くすと、翌69年には自身の人生を終えることになりました。ヘンドリッキェとの間にできた当時15歳の娘・コルネリアを残して。

 レンブラントは、どれだけ貧困に陥っても、絵画制作のための蒐集をやめなかったそうです。蒐集癖さえなければ生活に困らなかったのではと簡単に思ってしまいますが、そういうことでもないのでしょうね。このこだわりも含めて、まさに大画家だったのでしょう。


 ・・・という結論にしておこうと思った、レンブラントの家。

 そうそう、玄人曰く「レンブラントの作品は転落後が良い」そうです。

《63歳の自画像》1669年
ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵
wikipedia より>


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