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「いつでもスマイルしようね」は誰の言葉?

先日ミュージックステーションで森七菜さんが「スマイル」という曲を歌っていた。それはそれは可愛くて、全部聞き終わるころには自然とスマイルになっていたわけだが、この曲がカバーらしいということをその後知り、とても驚いた。いつも笑顔が印象的な森七菜さんのために書かれた(或いは彼女自身が書いた)曲だと思っていたからだ。

この歌詞をめぐって様々な意見があるらしい。と言うのも、Googleで「スマイル 歌詞」で検索すると「かわいい」という言葉の他に「嫌い」というサジェストが出てくるのである。

負の感情にはなるべく触れないように心がけている私だが、どこに嫌いになる要素があったのかどうしても気になったので仕方なくそのページに飛んでみた。すると少しずつこの歌詞を嫌っている人の意見が見えてきた。

様々な意見があったので簡単にまとめることはできないが、端的に言えば、「ホフディランという【男性】が書いた歌詞が女性に笑顔を強要しているようで不快だ」ということだった。(目に入る意見はどれもとても攻撃的で、冷静に論じている意見を探すのを諦めるほどだった。)

確かに「深刻ぶった女は綺麗じゃないから」や、「すぐスマイルするべきだ子供じゃないならね」という歌詞を男性が女性に向けて書いたとすれば問題にならないことはないだろうが、果たしてその属性は作品と不可分なものなのだろうか。

こういった問題に直面したとき、私は音楽と文学の差について目の当たりにする。

言い換えると、「ある楽曲の歌詞を誰が書いたか」ということと「ある小説を誰が書いたか」ということの間に私は何も差はないように感じるが、ある人はその間に何か簡単には埋め難いほどの溝を認識しているようだ、ということである。

これは「スマイル」に限った話ではない。ミスチルが(と言うより桜井和寿が)純愛の曲を書くと「不倫したくせに」と言う人がいる。AKBや乃木坂が可愛らしい曲を歌うと「おっさんが書いてるくせに」と言う人がいる。その一方で不倫を繊細に描いた小説は、文学として受け入れられる。音楽は必ずノンフィクションである必要があり、文学は常にフィクションであるべきなのであろうか。

小説では簡単に受容される「ファンタジーとして描いている可能性」が、音楽の場合は制限されている気がするのは私だけだろうか。

仮にこの「スマイル」という楽曲を森七菜が女性に向けたメッセージとして書いていたらどうだっただろう。ホフディランが女性目線で書いていたらどうだっただろう。

実のところ、その可能性は実は大いにある。

例えば全体を通して、「恋愛関係に関係にある2人がお互いに傷つき笑顔をなくしている。ひとりの女性が自分自身に笑顔にならなきゃと言い聞かせていると同時にもう1人にも笑顔でいてほしいと願っている」と読み取れないことはないだろう。

「早くスマイルの彼女を見せたい」という歌詞も、仮にカノジョ目線で歌っているなら「自分の笑顔をパートナーに見せたい」ということになるだろうし、仮に男性目線だとしたら「家族や友人に笑顔のかわいい彼女を見せびらかしたい」ということになるだろう。

しかし仮にこの曲が女性目線であったとして、或いは男性目線であったとして、何が問題なのだろうか。

音楽にせよ文学にせよある種の作品を残すことは、「一瞬に永遠性を持たせる」営みだと解釈することができる。ある日常あるいは非日常を作品として閉じ込めることによってそれは後世に残っていく。その中身がフィクションかノンフィクションかということに果たしてどれほどの価値があるのだろうか。

私が言いたいのは、「いつでもスマイルしようね」という言葉は誰の言葉でもいいのではないか、ということである。

「色々な辛いことを乗り越えるために常に笑顔を絶やさない人でいよう」というメッセージが核だとするならば、他は些末に過ぎない。それが仮に森七菜の言葉であってもホフディランの言葉であっても、だ。(伝わり方に差はあるかもしれないが。)

芸術と対峙するとき、人は永遠を感じる心的態度である必要がある。


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