妻は「どんがめ」を知らない
事の発端は「どんがめ子」だった。
「事の発端はどんがめ子だった」なんて文章、きっとこの先もう二度と書かない。貴重な瞬間に出会えたとポジティブに捉えて、最後までお付き合いいただけると嬉しい。
日曜日の午後、妻とスーパーへ出かけた。昨夜は雨音で目が覚めるくらいザーザー降りだったのに、朝になるとすっかり晴れていた。隣のマンションの屋上にはまだ水溜りが残っているが、ほとんどの部分は灰白色に乾いている。
GWが終わった途端、すっかり梅雨らしくなった。ここのところずっと雨が続いている。晴れている内に買い出しを済ましてしまおうと、レジ袋代わりにIKEAの青い袋を持ってドアを開けた。
玄関を出ると、マンションの外廊下に1匹の虫がいた。特に気にもせず通り過ぎ、踊り場でエレベーターを待っていると妻が尋ねてきた。
「今の、なんて名前だっけ?」
関西で生まれ育ったぼくは、ストレートを投げられるとフォークボールで返したくなる人間だ。
真っすぐで良いのについオチを求めてしまう。
たまにスライダーになるのはご愛嬌。
「今のなんて名前だっけ?」と聞かれて、単に名前を答えるだけじゃ面白くない。そう、ぼくはたぶん、ちょっとめんどくさい。めんどくさいぼくから出たのが、冒頭のあの言葉だった。
「どんがめ子やで」
こいつは何を言ってるんだと思ったかもしれない。
妻もまさにそんな顔をしていた。
解説の必要なボケは大概スベっている。冷めた表情で見つめられるのも慣れたもので、なんなら「今日もやってやったぜ」とすら感じる。
ドヤ顔とニヤリ顔の中間みたいな表情を浮かべながら、妻にきちんと説明した。
「さっきの虫はどんがめやんかぁ、普通に答えても面白くないとおもて、子をつけてみてん」
「いや、どんがめってなによ」
……え?
どんがめ、知らんのん?
「どんがめやん!夏なったら大量に出るやん!!潰さんようにそーっと外へ逃すやん!!!」
「いやだから、どんがめってなによ」
くうううううう!!
都会っ子はどんがめを知らんのか!?なんてラクな夏を過ごしてきたんや!!
「どんがめって、亀のボスってこと?」
首領・ガメってか。
急にきた首領・クリーク方式。
猛毒ガス弾!『M・H・5』!!ドゥン!!!
どうやらマジで、どんがめを知らないらしい。
それもそのはず。
どんがめはぼくの地元の方言だった。
田舎の夏は、どんがめの夏と言っても過言じゃない。
すごい。もんのすごい。
日当たりの良い縁側では毎日見かけるし、蛍光灯がむきだしになった和室の照明にはすぐ寄ってくる。刺激を与えると、強烈に青臭いにおいを放つ。だから田舎の人間は、刺激を与えずにそーっと紙にすくいあげる技術に長けている。
都会育ちの妻は、どんがめどころかカメムシすら日常的じゃないらしい。
そういえば確かに、大阪に来てからはぜんぜん見かけない。今日見たのも随分と久しぶりだった。
そんなくだらない話をしながらスーパーへ行き、鳥もも肉とかぼちゃとトマト缶を買った。
晩ごはんはミネストローネだ。
マンションに着き、オートロックの扉を開けてエレベーターに乗る。自室がある階のボタンを押して、どんがめがいた外廊下に戻ってくる。相変わらずどんがめはそこにいた。
それを見た妻が、乾いた声で言った。
「ところで、首領・クリークってなによ」
クリーク、お前もか…。
さよならクリーク。くそお世話になりました。
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