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No.21 運 2024年 5月藤田英樹

「時(とき)は今 天(あめ)が下知る 五月かな」明智光秀
古今東西の歴史研究に興味が尽きないこの私が、5月を迎えるといつも思い出す句です。
天正10年(1582年)、本能寺の変(6月2日)の起きる約一週間前の5月24日に京都の愛宕神社で開催された連歌会に、居城の丹波亀山城から出かけた光秀が詠んだ句です。
この「時(とき)」が、明智光秀の本姓である「土岐」と掛けられ、「時は今、土岐氏である私が天下を治める五月であることよ」という隠れた思いを表した句だったのではないか、と言われています。
この真偽は別として、この年、1582年は、私は戦国時代でも最も印象的でかつ戦国時代の英雄たちの重大な岐路となった年、即ち、「運」を決した年であると認じています。まさに「禍福はあざなえる縄の如し」を例証する格好の年です。
3月11日、武田信玄の後継ぎ、武田勝頼は織田信長の軍勢に攻め立てられ天目山に滅び、武田家は滅亡。
6月2日、山陰道攻め中に、山陽道攻めの羽柴秀吉の与力(援軍)を命じられた明智光秀は、未明に方向を変えて京都に侵攻し、織田信長とその後継者の長男・信忠は、それぞれ本能寺と二条御所にて討ち死に(自害)。光秀以外の信長麾下の各方面軍の軍団長達は、秀吉は宇喜多秀家、黒田、蜂須賀らと共に、備中高松城攻めで毛利の本軍(毛利輝元、吉川元春、小早川隆景)と対峙中。柴田勝家は北陸・魚津で、上杉景勝と交戦中。丹羽長秀は信長の三男・信孝と共に大坂にて長曾我部元親攻めの四国渡海準備中。 次男信雄は、伊賀平定後に伊勢・松阪にて治安維持中。滝川一益は武田討伐後の遺領を任され関東管領として上野(こうずけ)の厩橋城に駐屯し北条軍を警戒中。徳川家康は信長の勧めで堺を遊覧中から伊賀越えで三河に遁走。 僅か10日後の6月13日、中国大返しの秀吉軍に山崎の戦いで、明智光秀は敗れ、伏見の小栗栖にて頓死。 秀吉は思いがけぬ僥倖と機敏な才知で天下取りへ大きく踏み出し、信長に頭を押さえつけられていた家康は、触手を旧武田領に伸ばし、三河・遠江・駿河に加え、甲斐・南信濃を手中にし東国の大大名と成ったのです。この年で信長と光秀のライフは尽き、秀吉のライフは大きく展開し、家康は後に花咲くライフへの布石が打たれたのです。
各々の一つの決断、行動により日本の中世が近世に変貌するきっかけとなった年でした。
「ライフ」シフトとは、「運命」のシフトをたぐりよせること、その見本市のような年でありました。
※画像は明智光秀の肖像画

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