【短編小説】悪魔と泥試合-file2-
夏の強い日差しが地平線を沿いながら、赤色に染めあげて大空へと立ち昇っていく。藍色の空に、ゆっくりと流れる雲が朱く染まり、森に寝静まっていた鳥たちのさえずりが朝の訪れを告げている。凛とした澄んだ空気の中、川のせせらぎが揺らぎのメロディを奏でている。
時折、森の木々の合間を縫って蝉の鳴き声が聞こえている。夜中の寝苦しく蒸し暑さが一転して、深い山奥にある森の明け方の空気は川の水の冷たさも相まって、ひんやりと冷たいのである。
その川は、川幅が広い割に川底も比較的に深くないため、岩場を除けば、対岸同士が容易に行き来ができるようである。その川辺に、一つの大きなドーム型で深緑色のテントが張ってある。そのコールマン製のテントの中から幼子の声が聞こえる。
「ねぇ~お父さん。寒いよぉ~」
「うぅぅ、確かに寒いなあ。もっと、こっちに寄りなさい」
「だから、毛布を持って来ればよかったのよ!」
美人妻が幼い男の子を抱いて、寝袋から、しかめた顔を覗かせて言った。
「まあ、そう言うなよ。寝袋はちゃんと用意したけど、今、夏だよ!夏!それで、何で朝方に、この寒さになるって想像できるかだよ」
「そうかもしれないけど、それを想定しておくのが、通ってものじゃないのっ?」
「と、言われても・・・俺たち、今回が初めてのキャンプだよ。”ツー”も”スリー”も無いんだよねぇ」
つまらないオヤジギャグを真顔で言う夫に、美人妻が呆れ顏で言った。
「・・・また、オヤジギャグ・・・。そんなことばかり言うから余計に寒いのよっ!」
「分かったよ。とにかく、火を点けよう。そうすれば、温まるよ」
イケメン夫は冷たい肌を擦って震えながら、寝袋からゆっくりと起き上がると、背の低い天井に頭をぶつけないように進み、お湯を沸かすためのシングルバーナーに火を点けようとした。と、突然、美人妻が叫ぶ。
「ちょっとっ!待ってっ!それって、ガスバーナーよね?」
「そうだけど?」
「こんな狭いところで、しかも換気もせずに、そんなのに火を点けたら窒息するんじゃない?それだけじゃない!下手してテントにでも火が燃え移れば、一家こんがり丸焼きになるじゃないっ!」
美人妻の的確で恐ろしい想像力は、”一家こんがり丸焼きになる”まさにホラーの発想だ。イケメン夫はしょげたフリをして、自分の寝袋に潜り込んだ。
「お父さん。寒いぃぃ~」
可愛い娘が、おねだりをするように父を見つめる。渋面を作りながら、敗北宣言をするイケメン夫。
「ああ、分かった。分かった。よしっ!そろそろ、起きよう。コーヒーを淹れて、軽い運動でもすれば、少しは温まるよ」
美人妻と可愛い娘に挟まれたイケメン夫は、起き上がるとテントの外に出た。そして、キャンピングテーブルの上にシングルバーナーを置いて、お湯を沸かし始める。
ケトルからコポコポとお湯が沸騰する音が聞こえた頃、娘と美人妻、将来イケメン予定の男の子がテントの中から起きて出てきた。イケメン夫が熱いコーヒーを淹れる。コーヒーのやわらかな湯気とコクの深い香りが漂っている。イケメン夫がコーヒーを一口すする。
「うーんっ!マイルド。ワイルド」
「ああ、温かいっ。生きかえるわねぇ」
そんな二人を交互に見て、可愛い娘は
「うーん。スマイル。スカイプ。生きかえるわねぇ」
と、何処から持ってきた単語なのか、若干惜しいマネをした。一家は、熱いコーヒーを飲んで生きかえった。それは、まさにゾンビの発想だ。
「それにしても、良い朝だねぇ。小鳥のさえずり。川のせせらぎ」
「全くね。朝日の暖かい日差しに、木々の葉っぱの香り。本当、都会の喧騒とは全然違うわね。静かだわ」
「そうだねぇ~。」
三人は、チェアに深く腰掛け、朝の優雅な時に身を任せていた。幼い男の子は、美人妻の腕の中でスヤスヤと眠っている。と、そこへまたしても、あの森の草を踏み鳴らすような音が聞こえてきたではないか。それも複数の音が重奏を鳴らしながら、対岸の川辺へと接近してくる。
そして、森の奥から姿を現したのは、尖った耳に吊り上がった目。そして鋭い牙の生えた顎。図体の大きく、両手足に鋭い爪を持った、あの三匹の熊だったのだ。
優雅な朝のひと時を邪魔された一家は、対岸に現れたデカい熊の一家を凝視している。また、熊の一家もピタリと足を止め、人間一家を睨んでいる。両家族の間に、大きな火花が散り、川の水温を上昇させている。イケメン夫が思念する。
”このバカ熊がっ!どっかいけっ!”
それに対抗して、一番大きなお父さん熊が思念する。
”このボンクラ人間っ!さっさと森から出ていけっ!”
”このバカ熊っ!何を見ているんだっ!早くどけっ!”
”冗談こいてろっ!このボケ人間っ!調子に乗るなっ!”
『暫く、ボンクラどものサイキック念力合戦をお楽しみください』
「ちょっとっ!待ってよっ!今、変な言葉が聞こえなかった?」
美人妻が、イケメン夫とお父さん熊の間に割って入った。
『そうよ。お父さん。変な言葉が私にも聞こえたわ』
中ぐらいの大きさのお母さん熊がお父さん熊の肩を引っ張った。
「むむっ、確かに聞こえたな。サイキック念力合戦とかなんとか・・」
『確かに、俺にも聞こえたぞ。ボンクラどもとか・・・』
両者は、その不気味な言葉を思い出し、戦意を喪失したのか、フンッと鼻息を鳴らすと互いを牽制しながら元の場所へと戻っていった。今回は、ダジャレが無いのか。そう思った瞬間だった。可愛い娘が一言、言った。
「あ~あ、くまとドロー(引き分け)試合だね」
朝のお寒い風が、人間一家と熊の一家の間に吹き過ぎて行ったのである。
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