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違和感のある部屋 第一話(全四話)

 「私ね、一人暮らしをはじめたの」
 後ろから聞こえてきた声に、思わず振り返りそうになった。
 吉沢さんの声である。
 オレにとっては、心地良く耳をくすぐる声だ。

 うちの会社は、ビルのワンフロアを幾つかのパーテーションで区切って使用している。
 オレの背後にもパーテーションがあり、その向こうは、給湯器とシンクが設置されている。
 パーテーションと食器棚、ビルの壁で作られたそこは、独立した穴倉のような作りになっているのだ。
 そこに入ると安心感があるのか、ついつい女子事務員たちは、雑談に花を咲かすようであった。
 その会話が、パーテーションの向こう座るオレに、ボソボソと聞こえるていどの音量でとどいてくる。
 オレは手元の書類に視線を落としたまま、背後に耳を澄ませた。
 吉沢久美子は、オレが密かに恋心を抱いている事務員なのだ。
 その彼女が、一人暮らしをはじめたというなら、重大ニュースである。

 「場所はどこ?」
 これは総務の平野の声だ。
 キンキンと耳の痛くなる声だが、質問はナイスである。
 「あのね、……なの」
 オレは顔をしかめた。
 ガチャガチャと陶器のカップを重ねる音と重なり、肝心なところが聞き取れなかったのだ。
 「間取りは?」
 平野は聞き取れたのだろう、残念ながら、次の質問になってしまった。
 「2Kよ」
 一人暮らしには、ほどよい広さである。
 オレが住んでいるマンションも2Kである。
 玄関を入ると、短い廊下があり、片側にドアが二つ並んでいる。
 ひとつはトイレ、ひとつはユニットバスになっている。
 逆側には、小さなキッチンがあり、突き当りの片引き戸を開けると、ソファとテレビを置いた部屋となり、ここはリビングにしている。
 その奥の一室は、ベッドを置いた寝室である。
 部屋があるのは、七階建てマンションの三階だ。
 健康のため、疲れて帰宅しても、なるべく階段を使って部屋まであがるようにしている。
 軽いステップで階段をあがり、自分の部屋のドアを開けようとすると、隣室の住人らしき人が、ドアの前で立ったまま、ポケットから鍵を出そうと悪戦苦闘していた。
 まるでフランス映画のように、たっぷりと食材の入った大きな紙袋を抱えているため、ポケットに手が届かないのだ。
 そうこうする内に、買い物袋からミカン……、いや、この場合はオレンジだ。
 オレンジが転げ落ち、オレはそれを拾ってあげた。
 「落ちましたよ」
 「あ、ありがとうございます」
 紙袋の向こうから顔を見せたのは、吉沢さんであった。
 「あれ?」
 「どうして?」
 オレと吉沢さんは、驚いた顔を見合わせる。
 吉沢さんが一人暮らしをはじめたマンションというのが、どういう偶然か、オレの隣の部屋だったのである。
 「食材を買い過ぎちゃったから」という、ありきたりの言葉で、その日の夕食は、吉沢さんの部屋で、ご馳走されることになった。
 自分の部屋に戻ったオレは、手早くシャワーを浴びると、ラフだが小奇麗な服に着替えた。
 そして、赤ワインを手土産に、吉沢さんの部屋を訪れる。
 チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開き、彼女の部屋に招き入れられた。
 2K。
 オレの部屋と同じ間取りだ。
 引越ししたばかりだろうに、綺麗に片付いている。
 片付けた部屋は、これがオレの部屋と同じ間取りとは思えぬほど、広々と感じられた。
 部屋は住む人によって表情を変える。これはオレの持論である。
 この部屋は明るく微笑んでいるような部屋であった。
 座っているだけで安らぐ部屋である。
 吉沢さんの手料理を二人で食べ、オレの持ってきたワインを二人で飲む。
 時計の針が午後九時を示すと、オレは「じゃあ、そろそろ、帰るよ」と立ち上がった。
 「今日は泊まってもいいかい?」などとは言わない。
 なにせ初めての訪問である。
 これでもオレは、ジェントルマンなのだ。
 そのとき、点けっぱなしのテレビから、臨時ニュースが流れた。
 ナイフを振り回した男が、数人の通行人、駆けつけた警察官にケガを負わせ、逃走中だというニュースだ。
 しかも現場は、この近辺である。
 「怖い……」
 吉沢さんは不安そうな目でオレを見ると、申し訳なさそうな目で言葉を続けた。
 「あの、もし迷惑でなかったら、もう少し……」
 もちろんジェントルマンであるオレは、吉沢さんの頼みを快く引き受け、今しばらく、彼女の家に滞在することになった。
 「一人になると怖いから、今のうちにシャワーを浴びてもいい?」
 「かまわないよ」
 オレがうなずくと、彼女は恥ずかしそうに、クローゼットの収納ケースから着替えを出し、部屋を出て行った。
 しばらくすると、シャワーの水音が聞こえてくる。
 当然のことながら、オレは吉沢さんがシャワーを浴びる姿を盗み見たり、興奮して、その場に乱入したりはしない。
 なぜなら、ジェントルマンだからだ。
 彼女の方から、あられもない姿で、オレの方に飛び込んできてほしい。
 だが、軽い女性はイヤだ。
 そんなのは、オレの思う吉沢さんじゃない。
 恥じらいを持ちつつ、彼女の方からというのが、ジェントルマンの理想である。
 なので、オレは停電を起こすことにした。
 プツンとすべての照明が落ちる。
 吉沢さんの小さな悲鳴が聞こえると、バスのドアが開く音、そして慌てて、オレのいる部屋に駆け込んでくる音が聞こえた。
 暗闇の中で立ち上がったオレは、軽くパニックになった彼女を抱きとめた。
 「心配ない。ただの停電だよ」
 彼女を落ち着かせるために、優しくそう言ったとき、電気が復旧した。
 オレの腕の中には、小さなタオル一枚で胸元を隠した吉沢さんがいる。
 「うむ」
 オレは営業カバンを手に持つと立ち上がった。
 ジェントルマンたるもの、公私のけじめをきちんとつけるのだ。
 続きの妄想は、帰宅してからと決めたのである。
 会社を出る前に、穴倉から出てきた吉沢さんとすれ違った。
 「いってきます」
 「いってらっしゃい」
 吉沢さんは、笑顔でオレを見送ってくれた。

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