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私も"恐らく"女

リアルな生活の中でも
裏垢と呼ばれる界隈のSNSでも
男って…、女って…
いい男の定義、いい女の定義
そうやって大きな主語で、かつ、すごく狭い決めつけで語られるのを目にするたびに
男とか女って何なんだろう?ってどこか胸の中にひっかかりを覚えながら過ごす中で

男と女というセクシャリティで語られる表現を、
男性性や女性性って言葉に置き換えてみると、
語られた内容も含め腑に落ちたりもするし、男性的な性質の一端、女性的な性質の一端として見るならば、そうだよねって頷けるものもちろんたくさんある。

そもそもどんな人も男性性と女性性そのどちらも持っていて(だって男性にも女性ホルモンはあるし、女性にも男性ホルモンはあるわけで)、肉体面でも精神面でもそのバランスが一人一人のアイデンティティ構築にも深く関係しているし、それは千差万別なのに、短絡的に大きな主語で「男」と「女」の話として語られること、しかもそのほとんどは主観なのにまるで統計でもとったかのような「客観性」的に書かれるから余計に違和感を感じるんですよね。あれ、「男は(女は)」は「僕は(私は)」って書いたらいいし、「いい女ってこういう女」みたいなやつは「俺が好きなのはこういう女」って書けばいいのに、とか思ってしまいます。


話を戻すと
要は特にメンタリティの部分で言えば
男性性90% 女性性10%の男性もいれば
男性性65% 女性性35%の男性もいるだろうし
男性性30% 女性性70%の男性もいるだろうし
逆も然りで

それはジェンダーギャップがその人自身になくても
そのバランスは千差万別なわけで。

LGBTQのことには詳しくはないし
ここでそれを追求したいわけではないけれど
個人のセクシャリティというのはLGBTQでもカテゴライズできないくらい、もっともっとグラデーションのあるものだし揺れ動くものでもあると思うのです。

そんなことをふんわり考えていた時
目に飛び込んできたとある記事。

この言葉、私の中に何の違和感もなくするりと入ってきた。
私は映画に全く詳しくないのだけど、ティルダ•スウィントンという俳優さんの言葉。記事と共に目にしたその方の写真も、男とか女とかそんな枠組みが何も気にならない、ただただ「素敵な人」。
いいな、この人が発する雰囲気とても素敵だなぁ。

記事を読んで思ったのは
「私も恐らく女です」ってこと。
恐らく女、って、なんかすごく私にはしっくりきたの。

私はジェンダーギャップに大きく悩んだことはないけれど、でも小さい頃は男の子になりたいと思うことが多くて、立ちションの練習もたくさんしたし(!)男の子っぽい遊びも大好きでそこに全く無理はなかったのよね。むしろ無理があったのは、ピンクのヒラヒラのワンピースとか、花柄のお洋服とか…。嗜好として嫌いというよりは、子供ながらに鏡に映る自分への違和感と、着てることの心地悪さを覚えながら「嫌だ」と言えなかった記憶。洋裁が得意な母が作って私に着させる女の子らしいワンピースより、兄のお下がりの服のが実は嬉しかった。女の子であることに違和感があったわけではなくて、かわいい服もリカちゃん人形もおままごとも好きだったけれど、自分が身に纏うものに関しては、見てかわいいと思うものと、自分のパーソナルに違和感を感じずフィットするかは全く別だった。
大人になって友達と話したりした時に、持って生まれたジェンダーに紐づけられた「らしさ」とは別の一面を持つ願望を一切持ったことがないまま生きてきてる友達ももちろんたくさんいて、面白いものだなってよく思うのです。

私自身のセクシャリティを考えると
女性性と男性性ほんとに半々くらい両方持ってて
時に女性性が強く出る時と男性性が強く出る時と
シーソーを行ったり来たりするように生きてるような気がします。シーソーの真ん中にいることもあれば、端にいてどちらかが色濃く表出することもある。

性愛の興味や性的な対象は
生物的な部分で言えば男性だけれど、もしかしたらそれは、肉体的かつ生理的な部分だけでのことで、メンタリティの部分では、世の中的に言うところの男らしさや男性をマストには求めてはいない気がしてる。なぜなら自分がそのどちらも持ち合わせているし、そこにフォーカスして話すから男性性や女性性を区別して話しはするけれど、よくよく考えてみると、この国の歴史の中で語られてきた男性的性質、女性的性質ってのも、もはやピンとこないものも多くて、特にメンタリティの部分では何が男性性で女性性なのか、よく分からないなとも思うし、

人としての在り方に惹かれるものがあるならば、それが男性性だろうが女性性だろうがほんとは何でもいいのよね。素敵か素敵じゃないか、それだけ。



アイドルと言われる女の子たちみたいに
「かわいい」が渋滞してる女の子たちや
「セクシー」が渋滞してる女性たち、
なんというか女性性において、世の中的に魅力だと言われる両端の部分が凝縮した類の雰囲気を纏う人たちみたいに、「なってみたい」とは思うことはあったけど「一度で」よくて、そもそもその願望自体がコスプレ感覚というか。それで言うと、持ってる服はけっこう雰囲気幅広く何でも着るけれど、デフォルトとしてしっくり落ち着くのは、かっこよさ、が入ってるもの。幅広い雰囲気の手持ちの服の中で、唯一ないのがフェミニンなもの。これは私の性質の中で、持ってるものとしても、欲しいものとしても0%なんだと思う。

昔から無意識で、なりたい自分として欲するのって
見た目の雰囲気的にはアンドロジナス(その言葉を知ったのはここ数年だけど)というのが一番近くって。一言でわかりやすく言えば中性的。

私の場合はジェンダーギャップではなく、単に欲張りなだけで、生物学的には女性(という性を受け)として生まれ過ごしている中で、真逆のセクシャリティも無意識に欲していて、他者に対しても、揺れ動く女性性と男性性、垣間見えるそのグラデーションや、そこから生まれる雰囲気や感性に心をわりと動かされる。分かりやすく表現するならば可愛さ可憐さと同時にかっこよさや武骨さも纏っていたい。

見た目が違ったら、また少し違う人生だったのかな、と思ったりするのだけど、
かっこよさ、マニッシュな雰囲気、直線的なフォルム、そういうものに憧れながら、私は小さな頃から直線的な部分が肉体に一切なく全てにおいて曲線、胸もそれなりにふくよかに成長してしまい、それでいてさらにすごく背も低く、アンドロジナスどころか、昔よく言われたのは「トランジスタグラマー」(この言葉口にするのは大体高齢の人!流行った言葉なのかな…)真逆もいいところ。だからもちろん着たい服と似合う服はもちろん違ってしまう。
髪の毛もね、ストレートでツンツンとか憧れたけど
細い猫っ毛の天パ、これまた程遠いの。

人生って不思議なものです。
憧れはあれど、私の肉体は紛れもなく女性的で、そこにはギャップを覚えるわけだけれども、長く生きてくれば似合うもの似合わないもの、なれるものなれないものは分かってきて、やっと自分の中の様々なパーソナリティを総括した自分らしい雰囲気に近づいてきた気もします。

仕事では、よくよく、物事の考え方も進め方も、冷静沈着な佇まいも「男性的だ」と言われることが多いけど
だからと言って、男として扱われるわけではなく、男性の一員にはなれないし、肉体的には女性で力の面でも体力面でも、男性と同じようには存在出来ないことの方がもちろん多い。そして、未だ蔓延る男性上位、男社会、そういう社会の構図の中では、私は100%女なわけで、

与えられたセクシャリティの中で
ジェンダーのグラデーションを
右往左往しながら
"恐らく女"を生きてる。

そしてきっとこれからも"恐らく女"。


途中で少し触れた
性愛、性的な対象の話

こうやって書いていると
すごくしっくりくる表現が見つかった。
多分私が一緒にいて心地いい人、
共感性が高く違和感が少ないのは
「僕は"恐らく"男です」って感じの人なんだと思う。

強いて言うならば、
男にこだわって生きてる人、女にこだわって生きてる人、自らのセクシャリティにこだわって生きているタイプの人より、曖昧なグラデーションで性よりも人として生きる佇まいのが勝ってるような雰囲気の人の方が話してて面白いし、それなのにそういう人の方が性的(生理的な部分の)興味や、生物としての異性愛的興味が湧くから不思議なものです。(セクシャリティをカテゴライズすることを否定してるわけではないです。)

ジェンダーやセクシャリティと紐づくことに限らず、人のパーソナリティはグラデーションがあるし、瞬間瞬間で模様が変わっていく万華鏡のようだと思う。なんかそう思うと素敵だな。

みなさんは
自分に内在する男性性や女性性について
思いを馳せてみたことはありますか?

https://www.vogue.co.jp/change/article/celebrities-driving-social-change-tilda-swinton