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妻よ、『私は男らしい』と言ってくれるな

 女性に「男らしい」という区別はあるのだろうか?

 妻の作る飯はうまい。台所いっぱいを使って一気に作る料理、豪快な盛り付け、食卓には必ず4~5品が並ぶし、リクエストの幅も効く。それでいて、俺が帰宅するまで恨めしい顔を隠そうともせずダイニングで待つようなタイプでは断じてないし、バスケットボールに命を燃やしていた妻は、上下関係を重んじ嫌なことがあってもあまり深く悩まない。そうだ、エネルギッシュという意味では間違いなく妻は「男らしい」。

 ただ、俺の母親のことになると少し勝手が違う。生活感の溢れる台所で妻は力いっぱい食材を切りながら「お義母さんは『女』なんだよね」と言う。俺はその言葉の意味がさっぱり分からなかったが、「女じゃないならなんなんだ?」と返すのは明らかに愚問だと分かった。妻は背を向けたまま「感情で話すじゃん。お義母さん」と付け加えた。晩酌用のビールをグラスに全部注ぎ、溢れそうになった泡を吸って逡巡している俺に向かって。

 「感情」ということだけで話すなら、男にだって感情でものを話す奴は少なからずいる。結論が見えてこない話は苦手だ。だが、たとえ感情的に話したとしてもそこに互いの損得がある場合、いざとなれば喧嘩に発展しても引き下がれないような状況がある場合、感情を爆発させることもやむを得ないと考える。妻の言う感情とは違うのだろう。きっと。
 

 以前はお袋一人だけが妻の言う「女」だったが、娘が産まれると状況が変わる。子どもを介して妻の交際範囲が広がると、新たな「女」は驚くほど一気に増えていった。妻は決まって晩酌の時間になるとビールを片手に、いかに女という生き物が嘘つきで、ブレやすく、したたかで感情的な生き物であるかを語った。目の前の俺を責めるように「感情でコロコロ変わる。すぐ子どもに対して叫ぶのよ」「母親同士言いたいことがあれば、はっきり言えばいいのに。私ならはっきり伝えるけどな」と目をつり上げて語る。その大袈裟な身振り手振りでもって「私は女だけど『男』のような思考で生きている正しい女だ」と声高に叫ばんばかりに語る光景は、なんとも滑稽だなと思った。

 大体、そういう妻も、もう、十分感情的ではないか。
 その証拠に、子どもが産まれてからというもの幼稚園のバスに娘を乗せるただそれだけのことでも、抑制が効かず狭い家の中ですぐ叫ぶようになった。
「早くしてって言ってるでしょ!」
 毎日繰り返される茶番にうんざりする。
 ある朝、俺は歯磨きをしながらその様子を眺めていると、急に妻が白い顔でこちらを振り返って声を上げた。「パパも、歯磨きなんか後でいいから手伝ってよ」
 何をどう手伝ったところで、結局は無駄なのだと思う。だから手伝うことを諦めた代わりに「男らしい」妻なら分かるはずだろうと期待を込めて俺は言った。「そんなに子どもを怒るなよ」と。
 妻は子どもをバスに乗せると、青白い顔で戻ってきて、そして泣いた。
 ワーっと声を出して泣いた。
 「私だって頑張ってるのに。なんで誰も褒めてくれないの!!」

 「男」を自負する妻への期待は外れた。むしろ地雷だったのだ。

 その場を辞して自室に入り鍵をかけ「今、俺が話したところで、きっと冷静に話しは聞いてくれないだろう」とラインでメッセージを送った俺に、ドア越しから妻の不満が聞こえてきた。
 「面と向かって話せないなんて、卑怯よ」と。
 俺は思う。卑怯で一向にかまわない。このまま娘をバスに乗せるのを手伝わないことで攻め続けられたら、きっと俺は自分を守るために感情を優先するだろう。すなわちそれは妻と喧嘩を選ぶことになる。だが、喧嘩をして得られるものが何もないことは目に見えている。
 スマフォが震え、妻からのメッセージを伝えた。
 「私だって女なんだから」
 俺は笑った。初めから「君は男だ」などと言った覚えは一度もない。男のような女性に憧れていたのはむしろ妻の方だ。

 人類が産まれてから現世まで、男女の役割は変わっていない。もとい、生物学的に変われないのだ。
女が子どもを産み育て、男が外で働く。
女は子どもと家庭を守るため、男性が外で狩りをしているときに女性同士で集まり子どもを守った。ひとつのコミュニティだ。ここでは、女性の感情が外敵からコミュニティを守った重要な役割がある。戦国時代の武将を支えた妻もそうだ。巧みなコミュニティ能力で夫を支えた。
男らしいか、女らしいかで考えると、感情的なことが悪にさえなってくる。
女は男になれない。
男もまたしかり。
噂好きで、暇な女性は確かに面倒くさい。
 それと自分は違う人種であると言うなら、それは人格者としての基準で考えるほうが自然だ。そして人格的に優れているというなら、そうした類の女性を凌駕するほどの高みにいて、彼女たちに振り回されない力があると考えるほうが辻褄があう。愚痴など不要なのだ。初めから。

 圧倒的な妻の感情を剝き出しにした姿に触れて、確かに俺は逃げた。だから妻は今後もより一層、自分が発するそうした類の感情表現をトラウマ化させ毛嫌いしていくだろう。
お互いのために「ありのままでいいよ」と言葉を放てば良いのだろうか。 
いつもの食卓に並ぶうまい飯が脳裏をよぎる。
妻がまだドアの向こうに立っている気配がする。
俺はスマフォを取って文字を打った。
「君は確かに女性だ」
「だからもう、『私は男らしい』と言ってくれるな」
 

 
 

 


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