日本語はすでに失はれてゐる
日本に言文一致体の小説が生れると同時に、和歌の形式を離れた自由詩が生れた。それらは最初は主に英仏語で書かれた西洋の詩の翻訳として現れた。
上田敏の『海潮音』『牧羊神』は翻訳ではなく、英仏の原文を借りた日本語の詩である。実際、折口信夫は上田の翻訳が翻訳の枠を超えてしまって上田自身の詩となってをり、それでは原詩の姿が見ずらい、翻訳としては出来がよくないと難じてゐる。
明治生まれの人たちは日本語で自由詩を書けた。それはさうした詩人の誰もが和歌を詠めたからだ。そして、和歌が詠めるとは、幼少時に漢文の素読によって日本語の文法と語彙の根幹を養ってをり、もののわかり始めた頃には文語体で日本語を書けたからだ。
文語体の文が書けて、和歌が詠める。それでもって日本語ができると言へる。午前中の小説執筆の後の気晴らしとして、昼からは漢詩をひねってゐた夏目漱石は、それで、車夫馬丁下女婢(はしため)といった下層の人たちを「よほど教育の無いものと見える」として軽んじて、自分と対等の人間として扱へなかったのだ。満漢で妙な日本語を操る「支那人(ちゃん)」と同じ類(たぐひ)の者たちと思ってゐたのだらう。
『日本語が亡びるとき 英語の世紀で』の中で、この本の著者で作家の水村美苗は「ペリーが艦隊を率いて浦賀に入港したあと南北戦争が起こらなかったらとする」「日本がフィリピンと同様、アメリカの植民地となっていたとする」と前置きして、次のやうに書いてゐる。
水村美苗氏は、植民地としての日本は二重言語の社会であり、一般国民が読み書きする言語としては日本語が残るだらうとしながら、次のやうに書き進めてゐる。
水村美苗氏は、反実仮想の話として書いてゐるのだが、ここまで読んだ人は今の日本の話ではないのかと驚いたはずだ。
それの何が問題なのか?
「フィリピン人でも英語がペラペラなのに日本人は、・・・」と嘆いてゐる日本人は多い。二重言語社会、それこそ、多文化共生社会のさきがけではないのか?
西洋植民地支配の時代が終はると(大東亜戦争無しでどうやってそれが終はるのかといふことには水村氏は触れてないのだが)、現地語に落ちてゐた日本語は「公用語」に返り咲くだらうと水村氏は書いてゐる。
子供を英語だけで教育してゐる高校に入れた人が羨ましい。夢が叶ふのなら、セレブのやうに子供はインターナショナル・スクールに入れたい。日本政府は、せめて子供の時から英会話くらゐはできるやうに、もっと初等教育に真剣な関心を注ぐべきだ、と子供を持つ親は思ってゐるだらう。
戦争に負けた後、アメリカから日本にやってきた教育使節団の「助言」を、日本人はむしろすすんで受け入れて、子供が古典と触れるやうな教育をすべて廃止した。そして、完全に日本語の根は断ち切られた。
それを七十数年、日本人は、毎年の収入が上がることで満足して放置した。仮名遣ひが変はらうと漢字が略字にされて使へる数がごく少数に統制されても、何をされても、まったく痛いとも痒いとも感じなかった。
その結果、今、わたしたちは俵万智の歌を真似て和歌を作り、村上春樹氏の小説を読んでさすが文学だすごいノーベル賞まちがひなしと言ってゐる。
日本人がふたたび日本語を書き、話し、日本語で思考する日は二度と来ないだらう。
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