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フレネミーとの絶縁

長く交際歴のある友人と縁を切りました。
切る過程、切った結果、で生じた自分に渦巻く感情に疲労しました。覚え書きという意味も込めて整理しようと思います。

友人Aは学生時代に会い、まだそう親しくない時期に私のバックグラウンドを含め貶める様な発言がありました。でも相手から私を怒らせようという意思も見えず、自分もすぐに怒ることができずモヤモヤしたまま友人関係が継続しました。相手の言う事に一理あるかも…と受け入れたことで、何年も思い悩むことになったのであの時にしっかりおかしいのではないかと言う勇気が必要でした。

卒業してからも会う度、良いところはあるものの私をぞんざいに扱うような発言(本人曰く親しいからこそ何でも言える)をする様になり、会った瞬間は久しぶりに会えて嬉しい!と思うものの、帰り道は気落ちすることが多くなりました。
しかし、気落ちする自分の受け止めが悪いのではないかとも疑っていました。

長年経ったあと、やはり見下してないと出てこない最初の発言と似た内容を言われました。また散々マウントをされた後「比べて受け取るあなたがいけない。」とも言われ、自分の感情がわからないまま号泣していました。号泣しながらも自分の感情がどう名前をつけたらいいものかわからず混乱しました。

ただただ相手のことを考えると涙が出る、という気持ちに陥り自分からは一切連絡をとらずにいました。自分の嫉妬なのか?受け止めが悪いのか?と反省を繰り返しましたが、どうしても友人Aと楽しく話すことがイメージできなくなりました。

友人Aから久しぶりに連絡があった時に何が嫌だったかを伝えると罵られました。自分が絶対的に悪いとされることを言ったと本人も自覚した上でさらに人を罵ることができるのが理解できず、大変混乱し傷つきました。

色々調べた上で、友人Aはフレネミー、モラハラ、自己愛性人格障害だったのだと思います。
バックグラウンドの否定だけでなく、センスの否定も友情の名のもとにされてきました。また、自分の価値観が正しいという思い込みも強く、多様な考えや正義があるよねという前提を持ち合わせていないようでした。もしくは、沢山の考えがある中で自分が1番正しいと言うような…。
友人Aが周囲の人を優しい自己主張が強くない人で固めていったのは、友人Aなりの無意識下の生存戦略だったのではないでしょうか。
私は親しき中にも礼儀あり、親しいからこそ礼儀が必要と考えています。相手の心は乱りに踏んではいけないものです。自分の勝手な価値観で何でも言っていいよね、やっていいよねと踏みつけてはいけないものです。

友人A、そこで起きた自分自身の悲しみや怒り憎しみを整理することで過去のものにしていきたいです。


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