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救われなければならない理由

[テサロニケ人への手紙 第一 1:9,10]

人々自身が私たちのことを知らせています。私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。

今日の聖書箇所
Iテサ1:1〜10

今日からテサロニケ人への手紙に入ります。

テサロニケ人への手紙へのテーマは主イエス・キリストの再臨と終わりの時に現される神の正しい裁きです。

現代ではほとんど語られることがなくなってしまっていた聖書の大切な教えです。1980年代くらいは世の終わりとイエス・キリストの再臨についての教えがいろいろなところで語られていました。

どのようにして世の終わりが来るか、イエス・キリストが再臨されるかについて多くの予測がなされていたのです。それは米ソ冷戦が激しくなり、いつ核戦争が起こり、世界が終わってしまうか分からないという時代背景があったからです。

しかしその後、米ソ冷戦が終わり、ソ連が崩壊し、これから世界は平和になると言う雰囲気になっていきました。それに伴い終末論も一挙に下火になってしまったのです。

しかしコロナとウクライナ戦争あたりからまた雰囲気が変わってきました。そして今は終末論の焦点であるイスラエルを巡って第5次中東戦争が起きるかもしれないと言う情勢です。そしてそれに伴い第三次世界大戦が起こるかもしれないと言われています。それゆえ再び終末論がにわかにクローズアップされてきているのです。

私たちはこのような世界情勢は注視しつつも、しかしそれによって再臨は近いとか再臨は遠いとか、そのような判断をすることは聖書的ではないと思います。イエス様が地上に来られた時、これを初臨と言ったりしますが、誰も予想できない形で来られました。同じようにイエス様の再臨も私たちが予想できるようなものではないでしょう。

それゆえ世界情勢がどのようであってもいつ再臨があってもいいように準備していくこと、いつ花婿なるイエス様が来られても用意ができている純潔な花嫁となっていくこと、それが私たちクリスチャンの信仰生活の目的なのです。

テサロニケの聖徒たちはそのような模範的な信仰を持っていたのです。

使徒パウロがテサロニケに宣教した時、激しい迫害を受けました。そして信仰を持ったばかりのテサロニケの聖徒たちにも迫害と試練が許されていったのです。

信じてすぐにそのような迫害と試練が許されていくならば、誰も信仰など保つことなどできないだろうと予想されるのですが、何とテサロニケの聖徒たちはその中でも信仰を保ち、さらには信仰が成長していったのです。使徒パウロはそれはひとえに聖霊の働きによるものであると感謝するのです。

[テサロニケ人への手紙 第一 1:2,3]

私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。

テサロニケの聖徒たちは信仰によって主に仕え続け、兄弟姉妹の魂を愛し、また救われていない魂の救いのために労苦し、苦難の中で希望を失うことなく忍耐していたのです。

多くの人がそんな厳しい状況では信仰を保つことなど不可能だろうと思う状況の中でテサロニケの聖徒たちは多くの教会を励ますような模範的な信仰を持つようになったのです。

どうしてそんな事が起こったのか?もちろんそれは聖霊の恵みの御業だったのですが、彼らがイエス・キリストの福音による救いのゴールをしっかりと教えられ、それを見つめていたことによるのです。

彼らの信仰生活のゴールはこの地上で何かの祝福を受けることや恵まれていくことではなかったからです。イエス・キリストが再び来られる時、再臨の時に与えられる報いと冠こそが信仰生活のゴールだったのです。そしてその時になされる神の裁き、罪に対する神の怒りから救われたことに対する感謝が満ち溢れていたのです。

生まれながらの罪人は誰一人として神の怒りの裁きの前に立つことなどできない、罪があるままでは全ての人は神の怒りの裁きの前で永遠の滅び、地獄の刑罰を受けるしかない、しかしイエス・キリストの十字架の血の功績によって自分たちはそこから救われた、その救いの恵みに対する感謝と喜びが満ち溢れていたのです。

これがイエス・キリストの福音による救いなのです。それなのに私たちはどれほどこれと違う福音、別のイエスを信じてしまっていることでしょう。

イエス様を信じれば自分の願いが叶うとか、経済的に豊かになるとか、健康で幸せになるとか、そんな福音の一部分だけを切り取ったものだけを信じて、そうならないとイエスを信じても何も善いことはないと信仰を捨てたり、イエス様から離れたりすることがどれほど多いことでしょう。

私たちははっきりと知らなければなりません。祝福を受けることは救いではないのです。イエス様を信じなければならない理由はこの世的なご利益があるからではないのです。

イエス・キリストを信じなければならない理由は神の怒りの裁きから救われ、イエス・キリストの再臨の時に永遠に失われない報いと冠を受けるためなのです。それが信仰生活のゴールです。

そのゴールがしっかりと見えている人だけが信仰のレースを最後まで走り抜くことができるのです。

私たちは最初は皆、自分のためにイエス様を求めるのです。最初は皆、ご利益信仰的な信仰から始まっていくのです。それが悪いわけではありません。しかしそれにとどまってしまうなら信仰生活はやがて行き詰まっていきます。なぜならイエス・キリストによる救いはご利益や目に見える祝福を受けるためではなく、イエス・キリストの再臨の時に私たちが復活の体をいただき、天での報いと冠を受けることで完成するからです。

それゆえ御言葉を通して救いの全体像を知り、信仰生活のゴールをしっかりと教えられ、そこに向かってどこまでも成長していく必要があります、そのゴールこそイエス・キリストの再臨であり、私たちのからだの復活、世の終わりになされる神の裁きの特に報いを受けることなのです。

私たちはそこに焦点が合っているなら躓くことなく信仰のレースを走りぬくことができるのです。私たちが何を信仰生活のゴールにしているかを点検していきたいものです。

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