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真の信仰とただの思い込み

[列王記 第二 2:16,17,18]

彼らはエリシャに言った。「しもべたちのところに五十人の力ある者がいます。どうか彼らにあなたのご主人を捜しに行かせてください。主の霊がエリヤを運んで、どこかの山か谷に投げたかもしれません。」するとエリシャは、「行かせてはいけません」と言った。しかし、彼らがしつこく彼に願ったので、ついにエリシャは、「行かせなさい」と言った。そこで、彼らは五十人を送り出した。彼らは三日間捜したが、エリヤを見つけることができなかった。彼らは、エリコにとどまっていたエリシャのところへ帰って来た。エリシャは彼らに言った。「行かないようにと、あなたがたに言ったではありませんか。」

今日の聖書箇所
II列王2:15〜25

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

エリシャはエリヤの昇天を直接目撃し、エリヤが着ていた外套を受け取りました。エリシャはエリヤに与えられていた使命と油注ぎを受け継ぎ、後継者として主によって立てられたのです。

その証拠にエリヤの外套でヨルダン川を打つとヨルダン川が分かれるという奇跡が起こりました。

[列王記 第二 2:14]

彼は、エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った。

エリコにいた預言者の仲間たちはそれを見て、エリシャにエリヤと同じような油注ぎが与えられたことを認め、エリシャをエリヤに代わる霊的な指導者として受け入れたのです。

しかし、エリコの預言者たちはエリシャにエリヤの遺体を探しに行かせて欲しいとしつこく願うのです。エリコの預言者たちはエリヤが昇天するのを目撃していなかったので、エリヤは竜巻に巻き込まれてどこかに落ちたはずだと思ったのでしょう。人間的に考えるならとても合理的な考えです。

エリシャはエリヤが天に昇ったのを知っていたので、エリヤの遺体を見つけることはできないことを知っていました。それゆえ行ってはいけないと言ったのです。しかしエリコの預言者たちはエリヤが天に昇るなどそんなことはあり得ないとエリヤの遺体を探したいとしつこく願い続けたのです。

エリコの預言者たちは主なる神とその御言葉を信じていると思われていた人たちでした。しかし実際はエリシャが語ったエリヤは昇天したという神の言葉を信じることができず、そんなはずはないと自分たちの経験と常識に基づく思い込みを堅く信じていたのです。

そしてエリシャが語った神の言葉を否定して、自分たちの思い込みに従って行動したのです。その結果はどうなったのでしょうか?無駄な時間とエネルギーを使っただけでした。

神を信じているという人たちの中には「自分の信仰」に熱心な人たちが多くいます。神は愛だからこうなるはず、神に祈ったからああなるはずと自分の願望と思い込みを熱心に信じている人たちがいるのです。

しかしそういう人たちは神の言葉を信じているわけではないのです。自分に都合のいいように、自分の願望と考えに合うように神の言葉を変えようとするのです。そして結局は自分の思いと考えを通していくのですが、その結果はエリコの預言者たちのように虚しく終わってしまうのです。

聖書的な信仰とは自分の肉の考えを十字架について神の言葉を信じ、それに従っていくことだからです。

エリコの人々は水が悪く、流産で苦しんでいたのですがエリシャを通して与えられた神の言葉によって癒しの恵みを受けます。

[列王記 第二 2:19,20,21]

さて、この町の人々はエリシャに言った。「あなた様もご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産を引き起こします。」するとエリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう言われる。『わたしはこの水を癒やした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」

神の言葉は死と呪いの力を打ち砕き、癒しといのちを与えるのです。

ベテルの人々は神の言葉に真っ向から挑戦し、それを拒否していきました。ベテルにはヤロブアムが設置した金の仔牛が安置されていたので人々は真の預言者であるエリヤ、エリシャに対して激しい敵意を持っていたようです。それゆえ子どもたちまでがエリシャを嘲るのです。そのように預言者など必要ない、神の言葉など関係ないと神の言葉に挑戦する者たちは死を刈り取ることになってしまいました。

[列王記 第二 2:23,24]

エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、その町から小さい子どもたちが出て来て彼をからかい、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭」と言ったので、彼は向き直って彼らをにらみつけ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、子どもたちのうち四十二人をかき裂いた。

「上って来い、はげ頭」とはエリヤのように天に上って消えてしまえという罵りの言葉だったのです。

私たちは神の言葉を自分に都合のいいようにねじ曲げるのでもなく、神の言葉に挑戦するのでもなく、神の言葉をそのまま信じ従うことで死と呪いの力から解放され、癒しといのちをいただく者となりたいと思います。

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