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悔い改めはただの懺悔ではありません

[列王記 第一 21:27,28,29]

アハブはこれらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に粗布をまとって断食をした。彼は粗布をまとって伏し、打ちひしがれて歩いた。そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」

今日の聖書箇所
I列王21:17〜29

今日も列王記から恵みをいただいていきましょう。

アハブはイズレエル人ナボテのぶどう畑を手に入れようとしたのですが、それを断られてしまいました。それを聞いたアハブの妻、イゼベルは何の罪もないナボテに無実の罪をなすりつけるという陰謀によってナボテを殺してしまいます。アハブはイゼベルのその罪を黙認するのです。

イゼベルとアハブの罪はもうとどまるところを知りません。そのような恐ろしい罪に対して遂に神の裁きが下され、エリヤはその裁きの宣告をアハブに告げるのです。

[列王記 第一 21:20,21,22]

アハブがエリヤに「おまえは私を見つけたのか、わが敵よ」と言うと、エリヤは答えた。「そうだ。あなたが主の目に悪であることを行うことに身を任せたので、見つけたのだ。『今わたしは、あなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、イスラエルの中の、アハブに属する小童から奴隷や自由の者に至るまで絶ち滅ぼし、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バアシャの家のようにする。それは、あなたが引き起こしたわたしの怒りのゆえであり、あなたがイスラエルに罪を犯させたためだ。』

主なる神はアハブとイゼベルの罪に対して、一族全てを根絶やしにするという裁きを宣告します。

またアハブを惑わし続けたアハブの妻イゼベルにはさらに厳しい裁きを宣告します。

[列王記 第一 21:23]

また、イゼベルについても主はこう言われる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。

これは最も呪われた死を迎えるということであり、主なる神がイズレエル人ナボテの血に対する復讐をするということです。

驚くべきことにこのような主なる神の裁きの宣告を聞いたアハブは粗布をかぶり、断食をして悔い改めの態度を示すのです。主なる神はそのアハブのへりくだった態度を見てアハブに対する裁きを延期されるのです。

主なる神はエリヤを通して、また他の預言者たちを通して何度もアハブに悔い改めのチャンスを与えられました。しかしアハブはそれをことごとく退けてきたのです。

しかし最後に岩のように堅い心が砕かれて悔い改める心が与えられたのです。エリヤを通して語られた神の言葉がアハブのどこまでも頑なな心が砕いたのです。

そして主なる神はそのアハブの悔い改めを受け入れられ、特別な憐れみを注がれるのです。アハブにもう一度チャンスが与えられたのです。そのチャンスに偶像崇拝から離れ、イゼベルを追放することもできたのです。

そうするなら今後の展開もまた違っていたかも知れません。しかしアハブの悔い改めはそこまでいくことはなく一時的で不徹底でした。

アハブという人は精神的に弱く、依存的な人でした。それゆえ妻イゼベルの思う通りに動かされて罪に罪を重ねてしまいました。アハブの妻が信仰的で敬虔な人であったらアハブの一生も全く違ったものとなったでしょう。

私たちはどのような人と付き合うか、どのような人と共にいるかということに十分に気をつけなければなりません。良い影響を与えてくれる人と共にいて、悪い影響を与える人からは離れなければならないのです。

これではだめだなと思いながらズルズルと関係を続けているなら、やがてその人と同じ罪を犯し、同じ裁きを受けることになってしまいます。

また神の言葉を聞いたなら、すぐに悔い改め、従っていかなければなりません。悔い改めを延ばせば延ばすほど罪の刈り取りは大きくなってしまいます。

また悔い改めはただ心から罪を悲しむだけではありません。罪から離れ、神の言葉に従っていくことであり、罪に関わるものを全て断ち切っていくことです。ただ罪を悲しんでいるだけなら、罪に対する裁きが少しだけ延期されるだけに終わってしまいます。

主なる神の憐れみは限りなく深く、私たちが罪を悔い改めるのをどこまでも待っておられます。そして神の言葉が私たちに悔い改めの恵みを与えてくださいます。神の言葉を聞いて、真実に悔い改める謙遜な心を祈り求めていきたいと思います。真実な悔い改めとはただ罪を痛み、悲しむことだけではなく、御言葉への従順という行いの伴うものなのです。

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