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ありのままでいいのか?

ペテロの手紙 第二 1:3,4]

私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

今日の聖書箇所
IIペテロ1:1〜11

今日からペテロの手紙第二から恵みをいただいていきたいと思います。

使徒ペテロはイエス・キリストを信じて救われるとはどのようなことかをここで教えています。

救われるとは聖書の教理を理解するとか聖書についての知識を得るということではなく神を主イエスを知ることであり、信仰生活とはそのお方を知り続けることだと言うのです。

私たちが本当に神と主イエスを知っているかどうかはいのちと敬虔に関することを与えられているかどうかで分かると言うことです。本当に神と主イエスと出会い、神と主イエスを知るようになった人は必ず敬虔な信仰生活を送るようになると言うことです。

それは神と主イエスに似た者へと限りなく変えられていくと言うことでもあります。なぜそんなことが起こってくるかと言うと、主イエスを通して聖霊という神のいのちを与えられ、その神のいのちがその人の人生に必ず現れてくるようになるからです。

バラの花はバラのいのちの表現であり、ゆりの花はゆりのいのちの表現なのです。いのちは必ず自らを表現するものであり、またいのちは必ず成長していくものです。

もし私たちが主イエスを通して聖霊という神のいのちをいただいたなら、そのいのちは私たちの人格の根本的な変化となって現れ、またその変化は継続的に起こってくるのです。

それは第一に腐敗した肉の欲から解放されていくことです。

聖霊という神のいのちをいただくことがなければ、私たちはどこまでいっても腐敗した肉の欲の奴隷として生きるしかありません。それは何も特別に悪い人になるということではなく、目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢によって生きてしまうということです。それはどこまでも自己中心的な肉の性質に従って生きるということでもあります。聖霊という神のいのちをいただいていなければ、それ以外の人生など考えることもできないのです。そういう肉の欲を満たすこと以外に満足をもたらすものがあるということを想像することもできないのです。それが罪という腐敗したいのちによって生きている者であるということです。

しかし主イエスを通して罪から解放され、聖霊という神のいのちをいただくなら神を知ること、神との交わりによる恵と平安を知るようになるのです。そこにはこの世が決して与えることのできない喜びがあり、肉の欲を満たすことでは味わうことができない平安があるのです。それは神に愛され、神を愛するという平安です。

[ペテロの手紙 第二 1:2]

神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。

そのような恵みと平安を味わった者はもうかつての肉の欲による偽りの満足を求めようとはしなくなっていくのです。そのように目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢などを追い求めても霊的な満足はどこにもなく、かえって霊的な腐敗しかもたらさないことを知ってしまうからです。

第二に聖霊という神のいのちは神と隣人への愛となって現れていきます。

[ペテロの手紙 第二 1:5,6,7]

だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、
知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

自分の肉を愛し、自分のことしか考えられない、自己中心的な人格が神を隣人を愛し、仕えていくことを喜びとする人格へと変えられていくのです。それこそが神のいのちの現れなのです。いくらイエス様を信じていますと言っていてもそのような神のいのちの現れがないならば、それは本当にイエスを信じて救われた者なのかを点検しなければならないということです。

そしてまたそのような神のいのちの現れは私たちが何もしなくてもいいということではなく、与えられた新しい神のいのちを聖霊と共に成長させ、聖霊と共に古い罪のいのちを殺していく責任は私たちにもあるのです。

そのために熱意を傾けて、力を尽くして神のいのち、新しいいのちを成長させなさいと言っているのです。それが信仰生活であり、霊的な生活です。

そのような神のいのちを成長させる歩みをしていくなら私たちは豊かに実を結び、神にとってとても役にたつ者となるというのです。

[ペテロの手紙 第二 1:8]

これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。

イエス・キリストを信じて本当に救われた者たちは救われた者らしくく生きるようになっていくのであり、いつまで経ってもありのままで大丈夫などと言ったり、考えたりはしないということです。

私たちもまたイエス・キリストを信じているなら、いつまでもありのままで大丈夫などと言う霊的な盲目になることなく、救われた者らしく、愛されている神の子らしくどこまでも成長していくことを追い求める者となりたいものです。

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