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救われた者は罪が嫌いになります

[ペテロの手紙 第二 2:18,19,20]

彼らは、むなしいことを大げさに語り、迷いの中に生きている人々の間から現に逃げ出しつつある人たちを、肉欲と好色によって誘惑しています。その人たちに自由を約束しながら、自分自身は滅びの奴隷となっています。人は自分を打ち負かした人の奴隷となるのです。主であり、救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れから逃れたのに、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなります。

今日の聖書箇所
IIペテロ2:12〜22

今日もペテロの手紙から恵みをいただいていきたいと思います。

使徒ペテロは偽預言者、偽教師の本当の姿を明らかにしていきます。偽預言者、偽教師たちは口先ではどんなに神様、イエス様と言っていても神の子として新しく生まれ変わった者ではなく依然として罪と肉の欲の奴隷であることを明らかにします。

[ペテロの手紙 第二 2:12,13,14]

この者たちは、本能に支配されていて、捕らえられ殺されるために生まれてきた、理性のない動物のようです。自分が知りもしないことを悪く言い、動物が滅びるように滅ぼされることになります。彼らは不義の報酬として損害を受けるのです。彼らは昼間から飲み騒ぐことを楽しみとしています。彼らはしみや傷であり、あなたがたと一緒に宴席に連なるとき、自分たちのだましごとにふけるのです。その目は姦淫に満ち、罪に飽くことがなく、心が定まらない人たちを誘惑し、心は貪欲で鍛えられています。彼らはのろいの子です。

偽預言者、偽教師たちはどこまでも貪欲に肉の欲を満たすことを追い求め、どこまでも高慢なのです。全く救われていない者でありながら、自分たちは救われていると思い込んでおり、本当は悪魔の子であるのに自分は神の子であると自分で自分を騙し、また人々をもそのように騙していたのです。

平気でありとあらゆる罪を犯していながら、神は愛だから何をしたって大丈夫、赦されている、愛されていると自分を騙し、心が定まらない人たちを御言葉に従う必要などもうないのだ、もう律法などいらない、信じているなら救われているのだから律法から自由になりなさいと神の御言葉、神の戒めを捨てるように惑わしていたのです。

偽預言者、偽教師たちはそのようにして救われたいと願って教会に集っていた人たちを以前の罪と肉の欲の奴隷へと引きずり下ろしていたのです。

[ペテロの手紙 第二 2:22]

「犬は自分が吐いた物に戻る」、「豚は身を洗って、また泥の中を転がる」という、ことわざどおりのことが、彼らに起こっているのです。

犬は自分が吐いた物を食べてもそれが汚いものであるということが分かりません。また豚はせっかく身を洗っても、すぐに泥の中を転がってしまいます。汚い状態でいることが好きだからです。

偽預言者、偽教師たちはそのように罪が好きで、肉の欲が好きで、この世の汚れた快楽が大好きな人たちだったのです。それでいて口先では神様の愛を語り、イエス様の恵みを語っていたのです。

イエス様を信じて救われた者は確かに律法から自由にされます。その自由とは律法を真の意味で実現していくことができる自由であり、御言葉に従うことができるという自由なのです。

救われていない者は決して神の律法を守ることも、御言葉に従うこともできないからです。別な言葉で言うなら神を決して愛することができないのです。それが罪の奴隷ということです。

イエス・キリストを信じて新しく神の子として新しく生まれ変わった者だけが神を愛する自由が与えられ、律法を真実に実現し、御言葉に従っていく自由が与えられていくのです。

それゆえ本当に救われた者はいつまでもありのままでいたいなどとは決して願うことはありません。もっと神を愛する者となりたい、もっと神の御言葉に従い、神に喜ばれる者となりたいと願うようになるのです。

もちろんそれは簡単なことではありません。それは古い肉の性質との激しい戦いになるからです。しかし何度躓いてもチャレンジし続け、やがてそれができるようになっていくのです。それが霊的な成長ということです。救われた者に与えられた神のいのちはそのような成長という形で必ず現れていくのであり、そうでなければおかしいのです。

本当に救われた者は以前の罪の奴隷に戻りたいなどとは考えることも、願うこともないのです。もちろん肉の弱さのゆえに罪を犯して倒されてしまうことは何度もありますが、それでもうしょうがないなどと諦めることはなく、それを乗り越えて成長していきたいと願うはずなのです。

真の教師、真の預言者とはそのような神の子としてのいのちの成長を助ける者たちであり、偽教師、偽預言者とはその与えられたいのちを肉に心地よい耳障りの良い「神は愛だから大丈夫、神の裁きなんてないから大丈夫」という偽りによって殺していく者たちなのです。

私たちは目を覚ましてしっかりと祈り、御言葉を聞き続けることでこのような偽りの愛を語る偽預言者、偽教師、偽信徒たちに惑わされることなく、御言葉に従い、御言葉を実行う自由を味わう神の子として成長していきたいものです。

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