見出し画像

イエスを殺せと叫ぶ人々

[ルカの福音書 23:20,21,22,23,24]

ピラトはイエスを釈放しようと思って、再び彼らに呼びかけた。しかし彼らは、「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは彼らに三度目に言った。「この人がどんな悪いことをしたというのか。彼には、死に値する罪が何も見つからなかった。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよ強くなっていった。それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。

今日の聖書箇所
ルカ23:13〜25

今日は受難週4日目、イエス様の裁判の場面から恵みをいただいていきたいと思います。

聖書はイエス様には十字架のつけられるような罪は全くなかったと言うことを何度も語っています。

[ルカの福音書 23:13,14,15]

ピラトは、祭司長たちと議員たち、そして民衆を呼び集め、こう言った。「おまえたちはこの人を、民衆を惑わす者として私のところに連れて来た。私がおまえたちの前で取り調べたところ、おまえたちが訴えているような罪は何も見つからなかった。ヘロデも同様だった。私たちにこの人を送り返して来たのだから。見なさい。この人は死に値することを何もしていない。

ピラトはローマ総督で絶対的な権力者でした。ピラトが無罪にすると言えば誰も逆らうことなどできなかったのです。それなのにピラトは群衆の声に負けてイエス様には罪がないことが分かりながら、イエス様に十字架刑という最も凄惨な刑罰を下していくことになるのです。

結局はピラトもどれほど権力があると言ってもサタンの奴隷であったということです。十字架に向かうイエス様の周りにいる人たちを見ていくと、それぞれの人の罪が否応なく明らかにされていくのが分かります。

まず祭司長たちです。この人たちは敬虔な信仰者の顔をしていながら内側は妬みと貪欲で満ちていました。イエス様を前にした時に隠していたその罪がイエス様への憎悪と殺意となって明確に現れてしまったのです。

次に群衆です。群衆はついこの前はエルサレムに入城するイエス様を歓呼の声をあげて歓迎したのです。しかし今は執拗にイエスを殺せ、十字架につけろと殺意をむき出しにして叫んでいるのです。

群衆はイエス様が自分たちが期待したようなローマ帝国から解放してくれるメシア、あるいは奇跡を起こして自分たちの必要を満たしてくれる人ではないと分かると、期待は裏切られたとイエス様を激しく憎悪して十字架につけろと叫ぶようになったのです。

群衆にとってイエス様は自分たちの願いを叶えてくれる人、自分たちに利益を与えてくれる人でしかなく、そうではないイエス様など全く必要なかったのです。自分たちに利益を与えないイエスなど何の役にも立たない惑わす者であり殺しても当然な者だったのです。

群衆にとってイエス様が説いた天の御国や罪の赦しや永遠のいのちなど全くどうでもいいことで、ただ自分たちの願いが叶うか、自分たちの必要が満たされるかだけが大切なことだったということです。

つまり群衆がイエス様を熱狂的に歓迎したのは典型的なご利益宗教にすぎなかったということです。イエスに利用価値がなければすぐに捨てたのです。

そしてピラトです。ピラトはイエス様に罪がないことを知り、釈放する力もあったのですが、最後には十字架につけました。ピラトは自分の統治に暴動という傷をつけたくなかったからです。それによって今後の出世の道が妨げられることを恐れて、ただそれだけでイエス様を十字架刑という極刑に処してしまったのです。

最後にこのイエス様の裁判の場に一人もいないイエス様の弟子たちです。弟子たちはイエス様の最もそば近くにいなければならない時に皆、イエス様を見捨てて逃げていきました。自分も殺されるかもしれないと恐れたからです。

これらの人々は立場も価値観も考え方もそれぞれ違っていたのですが、共通していることがありました。それは自分の利益を第一にするという自己中心主義でした。それが人間の罪の本質であり、その罪を通してサタンはどんな人も自分の奴隷にできるということです。

サタンはこのような人々の自己絶対化という罪を通してイエス様を十字架に追いやっていくのです。その間、イエス様は一言も発することはありません。イエス様がいるだけでそれらの人々の罪が明らかにされてしまっているのです。

イエス様の十字架とは何でしょうか?それは人間のこの自己中心主義、自分絶対主義という罪のための贖いの代価であり、償いであり、刑罰なのです。その罪はサタンにそそのかされて神の言葉よりも自分の考えが正しいと思ったアダムから始まったもので、その罪の代価は死なのです。それゆえイエス様は十字架で死ななければならなかったのです。

十字架の周りにいる人たちの中に必ず私たちもいると言われます。私たちはどこにいるでしょうか?ピラトでしょうか?群衆でしょうか?ここにはいない弟子たちでしょうか?それとも祭司長でしょうか?考えたくもないことですがイスカリオテのユダでしょうか?

それが分かる時、私もまたイエス様を十字架につけた一人であることが分かるのです。その時、イエス様の十字架が私の十字架となっていくのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?