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嘲る者の最後

[列王記 第二 19:35,36,37]

その夜、主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた。アッシリアの王センナケリブは陣をたたんで去り、帰ってニネベに住んだ。彼が自分の神ニスロクの神殿で拝んでいたとき、その息子たち、アデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺した。彼らはアララテの地へ逃れ、彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。

今日の聖書箇所
II列王19:29〜37

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

アッシリアの王センナケリブの嘲り、中傷謀略によって追い詰められたヒゼキヤは切なる祈りで自分の苦しみを主なる神に注ぎ出し、預言者イザヤを通して主なる神からの応答を受け取ります。

イザヤはまずユダとエルサレムは回復されることを預言します。

[列王記 第二 19:29,30,31]

あなたへのしるしは、このとおりである。『今年は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目は、それから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家の中の逃れの者、残された者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから残りの者が、シオンの山から、逃れの者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』

アッシリアの長期にわたる包囲によってユダはとても荒廃していたのですが、3年目には種を蒔き、豊かな収穫を得るまでに回復させられていくと言う預言です。

どんなに悪の勢力が強力で、それによる破壊がどれほど大きかったとしても万軍の主はその熱心をもってその全てから回復させてくださるのです。ヒゼキヤが人に頼らず、万軍の主にのみより頼んでいった時にこのような回復が約束されるのです。

私たちも悪の勢力によって多くのものを奪われてしまうことがありますが、ただ主にのみより頼んで祈りの戦いに入っていく時に主による癒しと回復が始まっていくことを覚えて、どんな絶望の中でもひたすら祈り、主からの応答を受け取っていきたいと思います。

そしてイザヤはアッシリアの攻撃は失敗に終わり、エルサレムは守られることを預言します。

[列王記 第二 19:32,33,34]

それゆえ、アッシリアの王について、主はこう言われる。『彼はこの都に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。彼は、もと来た道を引き返し、この都には入らない──主のことば──。わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」

そしてこの預言の通りにアッシリアの大軍は一夜にして打ち砕かれる奇跡が起こり、アッシリアの王は引き返すことになるのです。

18万5千人もの軍隊が滅びてしまったのはネズミによる伝染病であったとか言われますが、何が起こったかは分かりません。しかし確かなことはアッシリアの大軍はエルサレムに迫りながら、それを占領することはできなかったと言うことです。

そしてヒゼキヤと主なる神を高慢にも何度も嘲り、罵ったアッシリアの王センナケリブは後の後継者争いによるクーデターによって自分の息子に殺されるという悲惨な最後を迎えることになったのです。

実はこの出来事はユダから引き上げて20年後に起こったと言われています。センナケリブはまさか20年経ってその罪の報いを受け、自分が蒔いたものを刈り取ることになるとは思っていなかったでしょう。しかし主なる神とその民を嘲り、罵ったセンナケリブに神の義なる裁きは思ってもいなかった時に下されることになったのです。

信仰者はその信仰のゆえに嘲り、罵られ、攻撃されることがあります。そしてそのように嘲っている人たちの方が豊かで、力があり、繁栄しているように見えることがよくあるのです。神の義も裁きもないかのように思われることが多くあるのです。

しかし私たちは惑わされないようにしなければなりません。主の時が来た時に必ず主はその義をもって正しい裁きを下されるからです。そして主はご自身を求めて従ってきた者に報いてくださるからです。

信仰者も神なんか信じないでいた方がずっと得ではないかとか、神は何にもしてくれないとか口走ってしまいそうな誘惑に何度も会うのです。しかし軽々しくそんな神を嘲る言葉、信仰を否定する言葉を口に出してはいけません。

私たちはやがて蒔いたものを刈り取ることになっていくからです。また自分が口にしたあらゆる言葉について裁かれることになってしまうからです。

[マタイの福音書 12:36,37]

わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」

嘲る者、訴える者、非難中傷する者こそ悪魔なのです。私たちが不用意に信仰なんて何にも役に立たないとか、イエス様を信じても何も良いことはないなどと不信仰で浅はかなことを口走るならそれは悪魔の仲間となって、悪魔と同じことを言っていることになってしまうのです。それを悔い改めないならやがて必ずその刈り取りをしてしまうことになってしまうからです。

[ヨハネの黙示録 12:10]

私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。」

それゆえ揺るがしと試練の時こそ神の言葉を思い巡らし、神の言葉を昼も夜も語る者とならなければなりません。そうするなら主の時が来た時にその人は何をしても栄える人となるからです。

[詩篇 1:1,2,3]

幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず罪人の道に立たず嘲る者の座に着かない人。主のおしえを喜びとし昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。

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