恵まれるために礼拝するのか?恵まれたから礼拝するのか?
[ネヘミヤ記 12:24]
レビ人のかしらたちは、ハシャブヤ、シェレベヤ、およびカデミエルの子ヨシュアであり、その兄弟たちが彼らの向かい側に立って、組と組が相応じて、神の人ダビデの命令に基づき、賛美をして感謝をささげた。
今日の聖書箇所
ネヘミヤ12:22〜30
今日もネヘミヤ記から恵みをいただいていきたいと思います。
いよいよ再建されたエルサレムの城壁の奉献式が近づいてきました。その奉献式は感謝の記念礼拝なのですが、そのために必要な準備がなされていきます。
まず賛美と感謝を捧げるレビ人たちが整えられていきました。現代で言えば教会の聖歌隊のような賛美チームが整えられて、神殿で毎日の日課として賛美と感謝が捧げられていったのです。
礼拝の本質はこのように主に対して感謝と賛美を捧げることにあるのです。私たちは礼拝で恵まれたか、恵まれないかが一番重要なことのように思ってしまいますが、礼拝の目的は私たちが恵まれることにあるのではなく、私たちに恵みを注いでくださった主に感謝と賛美を捧げることにあるのです。
そのような感謝と賛美によって主に栄光を捧げ、それが主によって受け取られた時に天の扉は開かれ、主の恵みが降り注がれてくるのです✨
レビ人たちは恵まれるために感謝と賛美を捧げたのではなく、与えられた数限りない恵みに日ごとに感謝と賛美を捧げたのです。帰還したユダヤ人たちは約100年前にユダの地に戻ってきたのですが、そこは廃墟でした。最初は情熱に燃えて何とか神殿を再建したのですが、その後は長く続く生活苦に疲れ果て、当初の信仰は崩れ、異邦人たちと結婚して偶像文化に流されてしまう者も起こっていたのです。
そのような状態の中からエルサレムの城壁が52日間で再建され、ユダヤ人の信仰共同体はリバイバルされていったのです。その事を思う時にユダヤ人は主の恵みに感謝と賛美を捧げずにはいられなかったのです。
私たちも時に感謝の材料が見つからないような暗く苦しい日々を通ることがあります。しかしどんな状況、環境でも感謝の理由は山のように多くあるのです。まずいのちそのものが創造主からの贈り物です。そして生きていくために必要な全てのものが与えられ、そして私たちはイエス・キリストを通して罪から死から呪いから、そして罪の刑罰である地獄の滅びからも救われ、永遠のいのちと天の御国、そして復活が備えられているのです。
その救いの恵み、イエス様の血による贖いの恵みを思うなら感謝と賛美を捧げないではいられないはずなのです。主の日の礼拝、その他の礼拝を捧げる中心目的はそこにあるのです。自分が恵まれることが第一の目的ではなく、恵みに対する感謝と賛美を捧げることが第一の目的なのです。
そしてそのような礼拝を捧げるなら、たとえどんなにメッセージが難しくても、また人と楽しく過ごす時間がなかったとしても、私たちは必ず恵まれていくのです。その恵みとは主ご自身によって満たされるという恵みなのです。
次に門衛たちが整えられていきました。
[ネヘミヤ記 12:25]
マタンヤ、バクブクヤ、オバデヤ、メシュラム、タルモン、アクブは門衛で、門の倉を見張っていた。
神殿の門にも、エルサレムの門にも門衛たちがいて敵が侵入してこないように見張っていたのです。ユダヤ人たちの敵はいつでも隙を狙っていたからです。また神殿に汚れた者が入るなら礼拝が破壊されてしまうからです。
これを私たちに適用するなら心の門をいつも見張るということでしょう。私たちの心の中にも敵が侵入して、私たちを騙し、惑わし、汚して私たちの礼拝を妨げてくるからです。
怒り、苦々しさ、心配、不安、恐れ、失望落胆、不信仰、思い煩い。怠惰、怠け、嫌気、劣等感などで私たちの心を満たし私たちから感謝を奪い、私たちが礼拝できないようにしてくる敵、悪魔がいるのです。
それゆえ私たちもいつも目を覚まして祈り、自分の心の門を見張っていかなければなりません。
さらに城壁奉献式のために祭司とレビ人たちは自分たちと民、そして城壁も清めていきました。
[ネヘミヤ記 12:30]
祭司とレビ人は自分たちの身をきよめ、また民と門と城壁をきよめた。
礼拝のために身も心もふさわしく整えていったのです。私たちもまた礼拝のために罪を悔い改めて主の血潮で汚れを清めていただき、礼拝のために自分を整えていくことがとても大切になります。
礼拝は聖なる主の御前に出て行くことです。そのためには主を畏れる心、敬う心がとても大切になります。そのような心が与えられるように自分自身を整え、真実な礼拝を捧げることができるように最大限の努力をしていく者となりたいものです。
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